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グレアム・シャープ

スコットランドのサッカー選手 ウィキペディアから

グレアム・シャープ
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グレアム・マーシャル・シャープ英語: Greame Marshall Sharp1960年10月16日 - )は、スコットランドの元サッカー選手、サッカー指導者。元スコットランド代表。選手時代のポジションはFW

概要 グレアム・シャープ, 名前 ...

エヴァートンの黄金時代のストライカーとして知られている。さらにエヴァートンでは426試合159得点というディキシー・ディーンに次ぐ歴代2位、戦後の選手としては歴代1位の得点記録を有している[1]

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クラブ歴

エヴァートン

1978年にダンバートンFCで選手になり、1980年に12万ポンドでエヴァートンFCに移籍。当初はトップチームに定位置を確保出来ず、初のシーズンは6試合出場に止まった。しかし、ハワード・ケンドールが監督に就任するとレギュラーとして起用され29試合で15得点、その後も活躍を続け、1970年以降勝利出来なかったアンフィールドでも1984年10月の試合で彼の得点で1-0とし勝利を記録した。

タイトルとしては、1984年のFAカップでは決勝で彼も得点を記録し優勝を記録した他、1985年と1987年にはイングリッシュ・フットボールリーグ優勝、そしてUEFAカップウィナーズカップ 1984-85で優勝を記録、「グレーテスト・エヴァー・チーム」と称されるエヴァートンの黄金時代の看板選手であった[2]

1986年にゲーリー・リネカーFCバルセロナに移籍すると、彼はポール・ウィルキンソンエイドリアン・ヒースワイン・クラークらとコンビを組んで得点を取った。その後200万ポンドでトニー・コッティが移籍してきて彼とコンビを組んだ。

マイク・ニューウェルが移籍してきてもレギュラーの座は譲らなかった。しかし得点力は1989-90シーズンは33試合6得点、一時期は首位を走っていたもののライバルのリヴァプールFCにタイトルを奪われ6位、翌1990-91シーズンは27試合3得点と落ち込み、彼を見出したケンドール監督が1990年11月に復帰してきたものの、最早構想外となった。エヴァートンはコッティとニューウェルを中心に攻撃を組み立てていく事になった。

オールダム・アスレティック

1991年、68年ぶりに1部に舞い戻ったオールダム・アスレティックAFCに50万ポンドで完全移籍。1991-92シーズンを17位で終えてプレミアリーグの初代メンバーとなった。翌シーズンも得失点差で残留しFAカップでは準決勝に進出した。しかし1993-94シーズンを以て降格した。

1994年11月、ジョー・ロイルがエヴァートンの監督に就任すると、選手兼任監督として指揮を執る事になり中位で終えた。オフシーズンにマイク・ミリガンを引き抜かれたのは痛く、翌シーズンは18位、1996-97シーズンには降格した。

バンガー・シティ

1997年にカムル・プレミアバンガー・シティFCの選手兼任監督に就任。カムル・クパンで優勝した。

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代表歴

1985年から1988年にかけて12試合の代表出場経験がある。1986 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されており、ウルグアイ代表戦で出場した[3]。代表では1得点も記録しており、マルタ代表からの得点である。

プレースタイル

2018年、ロビー・ファウラーがFourFourTwoから受けたインタビューの中で幼少期の憧れの選手の一人としてコメントしており、「シャープはファンタスティックなストライカーだ。ボールを持つ事も出来るし、ヘディングも得意で両足でシュートを打てる。さらにボールを散らすのも巧く、他の選手の方が得点に結びつきそうだったらボールを渡す選手だ。」と述べている[4]。エヴァートンではアンディ・グレイ、ヒース、リネカーとのコンビネーションで主に活躍し、1984-85シーズンは54試合30得点の記録を残した。

個人

サッカー以外の面ではリヴァプールにある出版社やラジオ局で働いている他、エヴァートンのアンバサダーとしても活躍している。

息子のクリス・シャープもサッカー選手[5]

タイトル

クラブ

エヴァートン

個人

監督

バンガー・シティ

参考文献

外部リンク

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