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ケルマーンシャー州

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ケルマーンシャー州
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ケルマーンシャー州(ケルマーンシャーしゅう、ペルシア語: استان کرمانشاه, ラテン文字転写: Ostān-e Kermānshāh)は、イラン・イスラム共和国州(オスターン)のひとつ。同国の西部に位置し、イラクと国境を接する。1979年以降1990年代までバーフタラーンという名称であった。

概要 ケルマーンシャー州 استان كرمانشاه, 位置 ...

州都ケルマーンシャーは人口約69万、北緯34度18分東経47度4分、西部イランの緯度的にほぼ中央部に位置する。有名なクーヘ・セフィード(山)の山腹にあり海抜1420m、サラーブ河谷にそって10kmにわたって広がる。

テヘランからの距離は陸路525km。穀物野菜果物脂肪種子を産する豊かな農業地帯である。石油、砂糖精製、セメント、繊維、穀物加工などの産業もある。空港は都市の北東にあり、空路テヘランから413kmである。

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歴史

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ターゲ・ボスターンレリーフ。中央に立つのはアルダーシール3世。左にアフラ・マズダー、右にアナーヒターが彫られている。

発掘により、旧石器時代以来、この地域に人が住んでいたことが明かになっている。ケルマーンシャー州には多くの遺跡がある。特にハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)、サーサーン朝期に栄え、支配者によって特段の配慮がはらわれた。

ケルマーンシャーは古代からのイラン都市で、伝説の王朝ピーシュダード朝のタフモレス・ディーヴバンドの建設した街だという。本格的な建設は4世紀、サーサーン朝バハラーム4世ともする。ホルミズド4世ホスロー1世治下、ケルマーンシャーは副都としての繁栄は頂点に達した。

アラブの侵攻では大きな被害を受けた。のちにサファヴィー朝下でも繁栄し、アフガーン族の侵入にともなう首都エスファハーンの混乱、衰退と同時期に、ケルマーンシャーはオスマン朝の侵攻を受け、破壊された。

1978年、イラン革命が成功。州内のクルド人自治権獲得を目指して革命勢力を指示してきたが、新政府はクルド人への弾圧を始めた。1979年8月、クルド人は州内の都市パベなどを占拠する反乱を起こしたが、同月中にイラン政府軍や革命防衛隊により鎮圧された[1]

イラン・イラク戦争ではケルマーンシャー州は激戦地となり、多くの都市、村が被害を受け、サルポレ・ザハーブガスレ・シーリーンは実際に破壊された。

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気候

ケルマーンシャー州は寒冷地域と温暖地域の中間にあって、山岳性ではあるが気候は穏やかである。夏は暖かいという程度で、もっとも暑いときで平均気温は22度。降水は冬に集中し、年間総雨量は500mmである。

さらに見る ケルマーンシャーの気候, 月 ...
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言語と人びと

州内で多く話される言語はクルド語ペルシア語ロル語であり、アラビア語トルコ語を話す人びともいる。このうちペルシア語がもっとも用いられる。定住民のほか州域全体に遊牧民もいる。イラク国境に近い山岳地帯にはクルド人が多く住む。

有名人

ケルマーンシャー生まれの有名人に英国人の作家ドリス・レッシング1919年生)がいる。父は英国将校でこの時期ケルマーンシャーに駐屯していた。

特産物

ケルマーンシャー絨毯と呼ばれるペルシア絨毯が有名。ほかに米で作る菓子がある。

名所・旧跡

  • ダーラヤワウ大王(ダレイオス1世)の碑(ビーストゥーン、紀元前6世紀)。標高1300mの山中にあって、近東考古学の遺跡でもっとも有名なもののひとつで、はるかな昔から注目されてきた。ハカーマニシュ朝ダーラヤワウ大王の銘は、古代ペルシア語エラム語アッカド語で彫られている。サー・ヘンリー・ロウリンソンはこの拓本をとり、19世紀半ばの楔形文字の解読に大きく貢献した。銘の上部には、反抗した9人の王たちに向き合うダーラヤワウが彫られている。丘の麓には最古期と思われるアルサケス朝期のレリーフが3つあるが、時の経過と土地寄進の影響で、ひどく損傷を受けている。サファヴィー朝シャー・ソレイマーンの宰相シェイフ・アリー・ハーン・ザンギャネの銘がある。
  • ターゲ・ボスターンサーサーン朝のレリーフ。サーサーン朝はケルマーンシャーの北東約6km、山崖から聖なる泉が噴出し大きな反響とともに滝をなす、この場をレリーフの場に選んだ。冬には全面霧と雲に覆われる。中でももっとも印象的なのは、もっとも大きいイーワーン(岩窟)に彫られた巨大な騎乗像である。これはホスロー2世(591-628)で、愛馬シャーブディーズに跨っている。騎馬、騎手ともに重装甲である。このイーワーンの反対側には狩りの場面を彫り込んだレリーフがある。一つは帝室の猪狩りの図で、もう一つも同様に鹿に近づく皇帝の姿を描いている。さらに、湖からイノシシをおいたて、皇帝が弓矢をもって待ちかまえる図があり、王のあとには楽を奏でる女性伶人の小舟が続いている。これらの狩りのレリーフは全体でももっとも鮮明なものである。1300年後、レリーフの上部に、謁見を行う19世紀ガージャール朝ファトフ・アリー・シャーが刻まれている。
  • アナヒータ神殿(紀元前200年、在キャンギャーヴァル)。キャンギャーヴァルは、ケルマーンシャーの東90km、ハマダーンとの中間にある小さな街であるが、古代遺跡が多くセレウコス朝がこの地に入った紀元前200年ころには、アフラ・マズダーミトラスとともに侵攻されたアナヒータ女神の聖域となっている。この広大な神殿は、ペルセポリスアパダーナの影響を受けたと思われる相対する階段配置をもち、飾り石の巨大なブロックで構築されている。
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脚注

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