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ケルン爆撃

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ケルン爆撃
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ドイツケルン市は、 第二次世界大戦中に262回にも渡る連合国の空襲を受けた[1]が、そのほぼすべてはイギリス空軍(RAF)によるものであった。他にアメリカ陸軍航空軍が誘導ミサイルの捕捉試験を1回実施しているが、これは失敗している。イギリス空軍が投下した爆弾の総量は合計34,711トンにも及び、市民20,000人が死亡したほか、ケルン市街はほぼ壊滅状態となった[2]

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1945年のケルン

イギリスの爆撃機が頭上を通過したとして、1940年の冬から春にかけて空襲警報が出されていたが、初の爆撃は1940年5月12日のことであった[3]。1942年5月30日夜から31日未明にかけて行われた空襲は、史上初の爆撃機1,000機による大空襲であった。

史上初の爆撃機1,000機による空襲

要約
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イギリスで公式に発表されたケルン空襲の想像図。街のシンボルでもあるケルン大聖堂が描かれている。ケルン大聖堂は度重なる空襲にも堪え、戦争を生き延びた。

史上初の爆撃機1,000機による空襲は1942年5月30日から31日にかけての夜に行われた。イギリス空軍がミレニアム作戦 (Operation Millennium) と呼んだこの大空襲の主目的は、以下の2つであった。

  • 大空襲による破壊によりドイツに継戦を諦めさせるか、少なくともドイツの士気を大いに損なうこと[4]
  • 空軍爆撃機軍団が戦争への勝利に重要な貢献ができることを示すこと。これは特に空軍爆撃機軍団司令官であったアーサー・ハリスにとって、戦略爆撃の概念を戦時内閣に認めさせるために有用なプロパガンダであった。実際、1941年には爆撃精度のあまりの低さから、爆撃機軍団は部隊を分割し、たとえば大西洋の戦いなど緊急性の高い戦域に回される有様であった。

この時点で空軍爆撃機軍団には約400機しか配備されておらず、戦前の双発中爆撃機からハンドレページ ハリファックスアブロ ランカスターといったより効率的な4発重爆撃機への機種転換の途上であった。ハリスは作戦訓練部隊 (Operational Training Unit; OTU) の爆撃機と兵員を動員し、空軍沿岸コマンドと空軍訓練コマンドから250機をかき集めることで1,000機の爆撃機隊を編成することができた。しかし、イギリス海軍は空襲直前になって沿岸コマンド所属機の参加を許可しなかった[5]海軍本部は、大西洋の戦いにおいてUボートの危険は差し迫っており、プロパガンダという理由は部隊を引き抜くには弱すぎると判断したのである。ハリスは方々を駆け回り、飛行訓練生を教官と一緒に搭乗させることで49機以上の爆撃機を確保し、最終的に1,047機を空襲に参加させた。これはそれまでの空襲の2.5倍の参加機数である。うち58機はポーランド人の部隊から参加した[6]。爆撃機に加えて、地上攻撃のために113機の戦闘機が随伴し、ドイツの夜間戦闘機飛行場を攻撃した。

もともとハリスはケルンではなくハンブルクを第一目標としていたが、ハンブルクの天候が悪く選択肢とならなかった[5]。イギリス空軍爆爆撃機軍団のオペレーションズ・リサーチ部門長であったバジル・ディキンズ博士は、ジーによる航法支援圏内にあるケルンを選ぶよう勧め、ハリスはこれを受け入れた[7]

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1944年10月30/31日のケルン空襲における爆撃機のH2Sレーダー画像。欄外に攻撃後に注釈がつけられている。

ボマー・ストリーム戦術が使用されたのもこのときが初めてで、この空襲で採用された戦術のほとんどはその後2年間に渡って空襲作戦の基礎戦術であり続けた。また、一部の戦術は終戦まで使用され続けた。ボマー・ストリーム戦術はいわゆる飽和攻撃であり、カムフーバー・ラインを同時に多数の爆撃機で通過することによってドイツの地上要撃管制を圧倒し、ドイツ夜間戦闘機に撃墜される爆撃機の数を許容できる程度に抑えることを期待するものであった。当時の最先端技術の一つであった電波航法支援システム ジーにより、爆撃機は決められた経路を決められた時間と高度で飛行することができた。イギリス空軍の夜間爆撃作戦は過去数か月に渡って実施されていたが、その経験から敵の夜間戦闘機や高射砲による損失機数、空中衝突による損失機数を統計的に推定することができた。前者を最小化するには、密集陣形が有効であった。防空にあたるドイツ夜間戦闘機の管制員が迎撃指示を出せるのは1時間あたり最大6目標程度であり、高射砲手も同時に多数の標的に集中砲火を浴びせることはできなかったからである。戦争初期において、許容可能な作戦時間は4時間程度と考えられており、この空襲では90分間ですべての爆撃機がケルン上空を航過して爆撃を行った。最初の爆撃機は5月31日0時47分にケルン上空に到着した。ごく短時間に濃密な爆撃を行うことにより、ドイツ空軍ロンドン大空襲で行ったようにケルンの消防隊を圧倒して被害を拡大させる効果があると考えられた。

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ヘルマン・クラーセンが撮影したケルン旧市場の聖マルティン協会。廃墟と化している。

空襲では、主目標に868機、その他の目標に15機が投入された。投下された爆弾の総重量は1,455トンに上り、その3分の2が焼夷弾であった。これにより2,500件の火災が発生、うちドイツの消防隊が「大火災」と分類したものが1,700件であった。消防士の消火活動や通りの幅のおかげもあって火災旋風の発生こそ防がれたが、それでもなお被害の大半は爆風ではなく火災によるものであった。非居住用建物は合計12,840棟が被害を受け、そのうち3,330棟が全焼、2,090棟が深刻な被害を受け、被害が軽いものは7,420棟に及んだ。そのうち、商工業施設2,560棟であった。全焼した建物には、行政官庁7棟、公共施設14棟、銀行7棟、病院9棟、教会17棟、学校16棟、大学施設4棟、郵便および鉄道施設10棟、歴史的建造物10棟、新聞社2棟、 ホテル4棟、映画館2棟、デパート6棟が含まれていた。軍事施設のうち損害を受けたのは高射兵舎1つだけであった。民家を中心とした居住用建物への被害はさらに大きく、全焼13,010棟、深刻な被害を受けたものが6,360棟、被害が軽いものに至っては22,270棟に上った。ヘルマン・クラーセンは空襲によりケルンが荒廃する様子を1942年から終戦に至るまで記録し、1947年に「劫火の中に歌う ケルン - 古都の廃墟(Singing in the furnace. Cologne – Remains of an old city.)」と題する展覧会と書籍で発表した[8]

この空襲におけるイギリス空軍の損失機数は43機であった(一方、ドイツのプロパガンダ放送では44機撃墜を主張していた)[9]。これは空襲に参加した1,103機の爆撃機のうち3.9%にあたる。ケルンまたはその近郊で22機が撃墜され、うち16機は高射砲、4機は夜間戦闘機、2機は衝突で墜落した。このほか2機のブリストル ブレニム軽爆撃機が夜間戦闘機飛行場の攻撃の際に撃墜された。他の乗員を爆撃機から脱出させるため犠牲になった飛行士官レスリー・トーマス・マンサーにヴィクトリア十字章が追贈された。

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参考文献

関連書籍

関連項目

外部リンク

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