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シンティ・ロマ人

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シンティ・ロマ人
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シンティ・ロマは15世紀頃からドイツ語圏に定住したロマと同根のロマニ系の集団であるシンティSinti)と、主に東欧に移住し、後のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団であるロマとを併せた呼称。中世に後のオーストリア・ドイツ・北イタリアに辿りついたと考えられ、シンティにはドイツ系住民と同化した者も多い。シンティからは多くの優れたミュージシャンが輩出されている。

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シンティ・ロマの国外追放(1940年・ドイツ、アスペルク)

ナチス・ドイツの時代には、ナチズムのイデオロギーに基づくいわゆる「劣等人種」だとしてシンティ・ロマも強制収容所に収容され、殺害された。犠牲者は30万人から50万人に上ると考えられているが、被害者・遺族への補償はロマに対する人種的偏見やユダヤ人団体との対立から[1]進まず、補償が行われるようになったのはシンティ・ロマの運動や緑の党によるところが大きい[2]。1971年に西ドイツシンティ中央委員会が結成され、翌年ドイツ・シンティ連盟に改名、1982年にはドイツ・シンティ・ロマ中央委員会(評議会)となった[2]。一方で、ロマニ系集団間のアイデンテティの違いも大きく、特にドイツではトランス・ナショナル志向の難民のロマとナショナル・マイノリティ志向のシンティの対立も報告されている[3]

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脚註

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