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ジェームズ・ハウ (第2代準男爵)

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第2代準男爵サージェームズ・ハウ英語: Sir James Howe, 2nd Baronet1669年ごろ – 1736年1月19日)は、ウィルトシャー出身の政治家。トーリー党の一員として庶民院議員(在任:1698年 – 1701年、1702年 – 1705年、1708年 – 1709年)を務めた[1]。出身選挙区のヒンドン選挙区英語版は頻繁な賄賂事件で知られ、1701年1月イングランド総選挙1702年イングランド総選挙で賄賂が立証され議員が失職していたが、ハウ自身も1708年イギリス総選挙で賄賂を主張する選挙申し立てにより失職した[2]

生涯

初代準男爵サー・ジョージ・グロバム・ハウと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓グリムストン(Grimston)、1708年/1709年没、第2代準男爵サー・ハーボトル・グリムストン英語版の娘)の息子として[3][4]、1669年ごろに生まれた[1]。1676年9月26日に父が死去すると、準男爵位を継承した[3][4]

1697年12月、ヒンドン選挙区英語版の補欠選挙に出馬する予定であり、選挙活動に多額の資金を投入したが、選挙直前に立候補を辞退して、代わりに姉ドロシーの夫にあたる[4]ヘンリー・リー英語版トーリー党所属)への支持を表明、リーはホイッグ党候補レノルズ・カルソープ英語版を破って当選した[2]1698年イングランド総選挙ではハウが自ら出馬して当選した[2][注釈 1]。この選挙ではハウがカルソープと手を組んだ可能性があったものの、1701年1月イングランド総選挙では確実に敵対したという[2][注釈 2]1701年11月イングランド総選挙では出馬しなかったが、アン女王が即位した後の1702年イングランド総選挙では出馬して、82票でトップ当選した[2][注釈 3]。議会ではトーリー党に所属したとされ、1704年11月にタッカー英語版トーリー党における、便宜的国教徒禁止法案金銭法案英語版を一緒に議決することで、前者を通過させる動き)をめぐる法案に賛成した[1]

1705年イングランド総選挙で得票数3位(56票)となり落選、1708年イギリス総選挙で一旦は当選したものの、賄賂を主張するカルソープの選挙申し立てが通り、1709年2月にハウの代わりにカルソープが議席を得ることで決着した[2]。以降2度と立候補しなかったが、1711年の補欠選挙では姉の息子にあたるヘンリー・リー・ワーナー英語版を支持した[1]

1736年1月19日に死去[3][4]ベリック・セント・レオナード英語版で埋葬された[1]。準男爵位は継承者がおらず廃絶[3]ウィルトシャーでの地所とサマセットでの邸宅は姉の息子にあたるヘンリー・リー・ワーナー英語版が継承した[1]

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家族

1689年10月2日にエリザベス・ナット(Elizabeth Nutt、1691年9月8日没、エドワード・ナットの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[4]

1694年8月2日にミルトン・リルボーン英語版でエリザベス・ストラトフォード(Elizabeth Stratford、ヘンリー・ストラトフォードの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[4]

注釈

  1. リーはカンタベリー選挙区英語版に転じて再選した[1]
  2. 1701年1月の総選挙ではハウとカルソープが一旦当選したものの、落選したジョージ・モーリー英語版の選挙申し立ての審議でカルソープの代表による有権者への贈賄が暴露され、カルソープが投票前にそれを知らされたことまで露見した[2]。そのため、カルソープの当選が取り消され、代わりにモーリーが繰り上げ当選した[2]
  3. 1702年の総選挙では今度はモーリーによる贈賄が露見して当選が無効になった上、ヒンドン選挙区の廃止議案が庶民院で提出されるという騒ぎになった[2]。議案は修正を経て庶民院で可決されたが、貴族院で否決され、結局1704年11月にヒンドン選挙区の補欠選挙が行われた[2]

出典

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