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ジミー・ウィザースプーン
アメリカ合衆国のブルース、ジャズ歌手 (1920-1997) ウィキペディアから
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ジミー・ウィザースプーン(Jimmy Witherspoon、1920年8月8日 - 1997年9月18日)は、アメリカ合衆国のジャンプ・ブルース、ジャズの歌手である[1]。戦後の大物ブルース歌手の一人であり、そのまろやかで深みのある声で、ブルースに留まらず、ジャズの世界にも入り活躍をした[2]。
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来歴
要約
視点
誕生からデビュー前まで
ジミー・ウィザースプーンは1920年8月8日、アーカンソー州ガードンに生まれた[3]。父親レナードは鉄道作業員、母親エヴァは教会のピアノ奏者であった[3]。両親はファースト・バプテスト教会のクワイアーで歌っており、ジミーも5歳の頃から、そこで歌うようになった。父親はジミーが幼い頃に亡くなっている[4]。
母親は信心深い人であり、ブルースは汚く洗練されていない音楽と考えてそれを認めることはなかったものの、ジミーのブルースへの関心はラジオやジュークボックスを通じて大きくなっていった。1930年代の半ばに、ジミーは故郷を出て、ロサンゼルスに移住した[4]。そこで彼は皿洗いの仕事をしながら生活をした[4]。
ウィザースプーンは第二次世界大戦が勃発すると米国の商船隊に志願し、1944年まで料理人として働いた。商船隊に所属中、インドのカルカッタに駐在し、テディ・ウェザーフォード率いるグランド・ホテル・ウィンダー・ガーデンのバンドに飛び入りして歌うようになった[3][5]。
キャリア
ウェザーフォードのバンドでのパフォーマンスがアメリカ軍ラジオの番組で放送され、ウィザースプーンは注目を集めることとなった[6]。
1945年にジェイ・マクシャンのバンドと初めてのレコードをリリースした後[6]、1947年に自己名義での初めてのレコーディングを行なった[7]。そして、その2年後、まだジェイ・マクシャンのバンド在籍中に彼の代名詞的な存在となった楽曲「Ain't Nobody's Business」がヒットとなっている[3]。1950年代には、彼がやった曲として知られることとなる2曲、「No Rollin' Blues」と「Big Fine Girl」をヒットさせており、またハーマン・ワシントン、ドン・ヒルを擁するジーン・ギルボー・オーケストラとレコーディングした「Falling By Degrees」、「New Orleans Woman」をモダン・レコードからリリースし、これもヒットとなっている。これらの楽曲は1949年5月10日、ジーン・ノーマンがスポンサーとなったカリフォルニア州パサデナの「Just Jazz」コンサートでのライヴ・レコーディングであった。この他ウィザースプーンの知られた楽曲としては「Times Gettin' Tougher Than Tough」がある。
ウィザースプーンは、リオン・ヘフリン・シニアのプロデュースによってロサンゼルスのリグリー・フィールドで開催されていたカヴァルケード・オヴ・ジャズ・コンサートに4回出演した。最初の出演はディジー・ガレスピーがフィーチャー・アーティストとなった1948年9月12日、第4回のコンサートで、フランキー・レイン、リトル・ミス・コーンシャックス、ザ・スウィートハーツ・オヴ・リズム、ジョー・リギンズ・アンド・ザ・ハニードリッパーズ、ジョー・ターナー、ザ・ブレンダーズ、ザ・センセーションズといったアーティストが出演者に名を連ねた[8]。プログラム解説にはウィザースプーンについて「業界で最も人気のあるブルース歌手の一人である。彼は古典的名曲で聴かれるような強力でクリアな声と表現力を持ち備えている。彼はブルースを歌い成功を収めたが、驚くべき甘い歌声でバラードも歌いこなす」と記載された。彼は1949年7月10日、第5回カヴァルケード・オヴ・ジャズにライオネル・ハンプトン、ザ・ハンプトーンズ、バディ・バンクスと彼のオーケストラ、ビッグ・ジェイ・マクニーリー、スマイリー・ターナーらと共に出演した[9]。続いてウィザースプーンは1951年7月8日の第7回のコンサートにも出演。他の出演者にはビリー・エクスタイン、ライオネル・ハンプトン・アンド・ヒズ・レヴュー、パーシー・メイフィールド、ジョー・リギンズ・アンド・ザ・ハニードリッパーズ、ロイ・ブラウンがいた[10]。このコンサートへの最後の出演は1952年6月1日の第8回であり、他の出演者にはアナ・メイ・ウィンバーン・アンド・ハー・スウィートハーツ、ジェリー・ウォレス、トニ・ハーパー、ロイ・ブラウン・アンド・ヒズ・マイティ・メン、ルイ・ジョーダン・アンド・ヒズ・オーケストラ、ジョセフィン・ベイカーがいた[11]。
ブルースのシャウターとしてのウィザースプーンのブルースのスタイルは、1950年半ばには時代遅れとなっていたが、1959年にロイ・エルドリッジ、ウディ・ハーマン、ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンズ、アール・ハインズ、メル・ルイスをフィーチャーしたアルバム『Jimmy Witherspoon at the Monterey Jazz Festival』で再び人気を得ている[12]。ウィザースプーンは後になりジェリー・マリガン、 リロイ・ヴィネガー、リチャード・"グルーヴ"・ホームズ、T-ボーン・ウォーカーといったミュージシャンたちとレコーディングをしている[3]。
ツアーと成功
1961年、ウィザースプーンはバック・クレイトンとヨーロッパをツアーし、その後イギリスには何でも渡航している。1960年代半ばのイギリスでのレコーディング『Spoon Sings And Swings』(1966年)ではテナー・サックス奏者、ディック・モリッシーのカルテットがフィーチャーされた。1970年には、ウィザースプーンはブラザー・ジャック・マクダフのブルーノート・リリースのロンドン・レコーディング盤『To Seek A New Home』にディック・モリッシー、テリー・スミスを含むイギリスのミュージシャンと共に参加した。ウィザースプーンはまた、1971年に エリック・バードンとレコーディングしたアルバム『Guilty!』(後に『Black & White Blues』のタイトルでCD化)をリリースしている[3]。この作品にはアイク・ホワイト&ザ・サン・クエンティン・プリズン・バンドがフィーチャーされた。 続いて、彼はロベン・フォードラッセル・フェランテをフィーチャーした自身のバンドでツアーに出ている[6]。この時期の楽曲「Spoonful」ではロベン・フォード、ジョー・サンプル、コーネル・デュプリー、サド・ジョーンズ、バーナード・パーディーが彼をサポートしている[13]。彼は1990年に入ってもコンサートへの出演とレコーディングを続けた[13]。
その他ウィザースプーンがレコーディングを共にしたパフォーマーにはジミー・ロウルズ、アール・ハインズ、ヴァーノン・アリー、テディ・エドワーズ、ジェラルド・ウィギンズ、ジョン・クレイトン、ポール・ハンフリー、ペッパー・アダムス、ケニー・バレル、ハリー・"スウィーツ"・エディソン、ジミー・スミス、ロング・ジョン・ボルドリー、ジュニア・マンス、デューク・エリントンのベーシストのジミー・ウッド、ケニー・クラーク、ジム・ミュレン、カウント・ベイシー、ヴァン・モリソン。ダッチ・スウィング・カレジ・バンドらがいる。
死去
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俳優として
- 1995年の映画「ジョージア」でウィザースプーンは旅する銃収集家のブルース歌手、トラッカーを演じた。彼はジェニファー・ジェイソン・リー演じる問題を抱えた人物、セイディと関係を持つという設定となっている。
- その他「Black Godfather」(1974年)ではネイト・ウィリアムズ役、「To Sleep With Anger」(1990年)ではパーシー役を演じた。
家族
ウィザースプーンの孫のアーケロ・ウィザースプーンはアメリカン・フットボールの選手であり、ロサンゼルス・ラムズのコーナーバックである[15]。
来日公演
ウィザースプーンは1963年、1987年の二度来日をしている[16]。1963年の来日はカウント・ベイシー楽団との公演で、その演奏は1984年リリースのアルバム『Count Basie and his Orchestra Nobuo Hara and his Sharps & Flats Chiemi Eri, Jimmy Witherspoon』(King)に収録された[17][18]。
ディスコグラフィー
要約
視点
アルバム
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脚注
外部リンク
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