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ジョン・ウッドハウス (第4代準男爵)

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第4代準男爵サージョン・ウッドハウス英語: Sir John Wodehouse, 4th Baronet1669年3月23日 - 1754年8月9日)は、イングランド王国出身の政治家トーリー党に所属し[1]庶民院議員(在任:1695年 - 1698年1701年 - 1702年1705年 - 1708年1710年 - 1713年)を務めた[2]

生涯

要約
視点

サー・トマス・ウッドハウス(Sir Thomas Wodehouse、1636年ごろ – 1671年4月29日、第3代準男爵サー・フィリップ・ウッドハウスの息子)と妻アン(Anne、旧姓アーミン(Armine)、1719年4月2日没、第2代準男爵サー・ウィリアム・アーミン英語版の娘[3])の息子として、1669年3月23日にノーフォークキンバリー英語版で生まれた[2]。1671年に父が死去すると、その遺産を継承[4]、1681年5月6日に父方の祖父が死去すると、準男爵位を継承した[2]

年収約5,000ポンドの領地を所有しており[4]1695年イングランド総選挙トーリー党候補として近隣のセットフォード選挙区英語版から出馬、無投票で当選した[1]。1度目の議員期では1696年11月に第3代準男爵サー・ジョン・フェンウィック英語版私権剥奪に反対票を投じ、1697年にセットフォード英語版で橋梁の建設に出資した[4]1698年イングランド総選挙に出馬せず、議員を退任した[4]

1701年1月イングランド総選挙にも出馬しなかったが、同年にセットフォード市裁判所判事の終身任命を受けると、11月の総選挙に出馬した[1][4]。この総選挙ではトーリー党候補に3人が名乗り出たが、ホイッグ党を利しないよう1人が説得されて立候補を取りやめたため、ウッドハウスは無事当選した[1]翌年の総選挙ではカウンティ選挙区であるノーフォーク選挙区英語版での立候補を検討したが、結局立候補せず、議員を退任した[1]

1705年イングランド総選挙で三たびセットフォードから出馬して無投票で当選したが[1]、同年の議長選挙では登院しなかった[4]。しかし、1707年夏にセットフォードの地方自治体が裁判所命令を受け、地方議員の職を失ったホイッグ党員の多くが復帰したため、1708年イギリス総選挙ではウッドハウスの勢力が弱体化して、セットフォード選挙区で当選できなかった[1]。その後、ウッドハウスはセットフォードにおける不動産の一部を売却した[4]

1710年イギリス総選挙ヘンリー・サシェヴェレル英語版の弾劾をめぐりトーリー党有利な情勢であり、ウッドハウスは父方のおばの夫にあたる初代準男爵サー・ジェイコブ・アストリー英語版と手を組んでノーフォーク選挙区から出馬した[4]ロバート・ウォルポールらホイッグ党候補2人との激戦の末、ウッドハウスとアストリーはそれぞれ3,216票(得票数1位)と3,200票(得票数2位)で当選した[5]。3度目の議員期では1713年にフランスとの通商協定に賛成票を投じた[4]同年の総選挙に立候補せず、以降2度と選挙に立候補しなかった[4]

ジョージ1世の治世ではジャコバイトクリストファー・レイヤー英語版(1723年没)が作成したジャコバイト支持者リストに含まれた[4]

1754年8月9日に死去、次男アーミンが準男爵位を継承した[2]

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家族

1700年6月17日、エリザベス・ベンソン(Elizabeth Benson、1701年1月5日没、ロバート・ベンソンの娘、初代ビングリー男爵ロバート・ベンソンの姉妹)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[2]

1705年[4]、メアリー・ファーマー(Mary Fermor、1729年10月24日没、初代レンスター男爵ウィリアム・ファーマー英語版の娘)と再婚[2]、3男1女をもうけた[4]。再婚のとき、ウッドハウスはメアリーに対し、「隠居同然の生活や田舎暮らしが好きならば、できる限り喜ばせますが、そうでなければ喜ばせられない」(if she liked retirement and a country life he would make her happy as he could, otherwise he could not be so)と述べ、メアリーは許諾して、ノーフォークの生活に満足して過ごした[4]

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出典

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