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ジョン・フィッツパトリック (第2代アッパー・オソリー伯爵)

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ジョン・フィッツパトリック (第2代アッパー・オソリー伯爵)
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第2代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリック英語: John FitzPatrick, 2nd Earl of Upper Ossory FRS DL 1745年5月2日1818年2月1日)は、アイルランド貴族グレートブリテン王国庶民院議員。1751年から1758年までゴーラン男爵の称号を使用した。弟に政治家のリチャード・フィッツパトリック英語版がいる。

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1767年のジョシュア・レノルズによる肖像画に基づく、サミュエル・ウィリアム・レイノルズ英語版による1820年のメゾチント

生涯

初代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリックとイヴリン・ルーソン=ゴア(Evelyn Leveson-Gower、1763年4月14日没、初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアの娘)の長男として、1745年5月2日に生まれた[1]。1758年9月23日に父が死去すると、アッパー・オソリー伯爵の爵位を継承した[1]。1754年から1760年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、1760年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[2]

1763年、愛書家のトパム・ボークレア英語版とともにイタリアに滞在、そこで絵画を購入したり、ゲイヴィン・ハミルトンに絵画を注文したりした[3]。帰国の後、アッパー・オソリー伯爵が首相グラフトン公爵の妻アン・フィッツロイと愛人関係になったため、グラフトン公爵もアン・パーソンズ英語版と不倫関係になり、最終的にはグラフトン公爵が離婚、アン・フィッツロイがアッパー・オソリー伯爵と結婚することとなった[4]

1767年4月にベッドフォードシャー選挙区英語版で当選して庶民院議員になり、以降1794年まで議員を務めた[2]。また、1771年から1818年までベッドフォードシャー統監英語版を務めた[1]

1780年2月17日、王立協会フェローに選出された[5]

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19世紀初期の第2代アッパー・オソリー伯爵

1794年8月9日、グレートブリテン貴族のアムティルのアッパー・オソリー男爵に叙された[1]

1818年2月1日に死去[2]、13日に埋葬された[1]。後継者となる嫡子を儲けず、爵位は全て廃絶した[1]。遺言状で遺産を一代限りで娘ガートルード、庶子アンとジョンに与えた[1]

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人物

ホレス・ウォルポールの友人であり、2人の間の手紙が数多く残っている[6]

家族

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アッパー・オソリー伯爵夫人アン・リデル、ジョシュア・レノルズ作、1775年頃。
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第2代アッパー・オソリー伯爵の娘ガートルード、ジョシュア・レノルズ作、1779年。

1769年3月26日、アン・リデル(Anne Liddell、1738年頃 – 1804年2月24日、初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデルの娘)と結婚[1]、下記の子女を儲けた。

  • メアリー(1770年2月24日 – ?) - 夭折
  • ガートルード(1774年8月 – 1841年9月30日) - 生涯未婚

ほかにも下記の庶子を儲けた。

  • アン(1774年2月10日 – 1841年12月14日) - 生涯未婚[1]
  • エンマ・メアリー(1882年没) - 1823年、ロバート・ヴァーノン・スミス英語版(後の初代リヴデン男爵)と結婚、子供あり
  • ジョン(1811年9月23日 – 1883年1月22日) - 初代カースルタウン男爵

脚注

関連図書

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