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ジョン万次郎漂流記

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ジョン万次郎漂流記』(ジョンまんじろうひょうりゅうき)は、井伏鱒二の伝記小説。副題をふくめると『ジョン万次郎漂流記 風来漂民奇譚

1937年(昭和12年)11月、河出書房「記録文学叢書」の第8巻として書き下ろされた。

先行作品

筆写本

万次郎の帰国当時の記録は多く、代表的な筆写本として下記のものがある。

嘉永4年 (1851) の長崎奉行所での口書(取り調べ記録) [1] [2]
前半は一行の体験、後半は各国の様子。
吉田正誉 『漂客談奇』嘉永5年 (1852) 秋 [1] [2] [3][注 1]
土佐藩の命令により、吉田正誉が1日で聞き取り、山内容堂に献上された。
亀谷益之 [注 2] 他 『難船人帰朝記事』 嘉永5年秋 [1]
『江戸漂流記記録集』[2]所収のものは、「中ノ浜庄屋三名聞き書き」と題する(ただし上中下のうち「中」のみの収録)。
河田小龍記 『漂巽紀畧』 嘉永5年冬 [1] [7] [6]
絵師河田小龍は万次郎を自宅に住まわせ、日本語の読み書きを教え、万次郎からは漂流譚を聞き取った [8]
早崎益寿他 『漂洋瑣談』 嘉永6年春 [1]
著者は土佐藩馬廻役。『漂巽紀畧』草稿の写しに万次郎の記憶を加えたものという。
作者・底本不明 『漂流万次郎帰朝談』嘉永6年冬以降
石井研堂 『異国漂流奇譚集』福長書店 1926 (新人物往来社 1971)所収

印刷刊本

最初から印刷出版された刊本として、次のようなものが知られる。

鈍通子(仮名垣魯文)『大日本土佐国漁師漂流譚』嘉永6年秋 長崎 18p.

別名『満次郎漂流記』。最初の一般読者向けの木版印刷。当初は文字のみの本だったが、出版が無事黙認されたので、彩色図を加えて再版した[2][6]

江本嘉兵衛 『亜米利加漂流譚:土佐国中浜万次郎伝』 明治11年 19p.

戸川残花 「中浜万次郎伝」

「中浜万次郎氏の伝 -漂流実話-」として明治29年毎日新聞に21回連載。改訂して明治30年『旧幕府』に3回連載[1]。大正15-昭和2年『海軍』にも「中浜万次郎漂流記」として12回連載。

石井研堂 『中浜万次郎』博文館 1900 [9] 136p.

博文館から『少年読本 第23篇』として発行。井伏の『ジョン万次郎漂流記』の主典拠[4]

その出典について序文に以下の記述がある。

中濱東一郎君の貸されたる材料と、戸川残花君が『旧幕府』に書かれし『中濱萬次郎君傳』とは殊に予に益を与えたり、資料の拠る所を示し、併せて両君に謝す。
寺石正路 『中浜万次郎漂流奇談:東洋のロビンソン』 六盟館 1920 126p.
国沢新兵衛 『中浜萬次郎漂流記』 土佐史談会 1931 32p.

中浜東一郎 『中浜万次郎伝』 富山房 1936 488p.

中浜東一郎は万次郎の長男。充実した考証で、1930年代の万次郎伝の決定版。全56章中27章目で万次郎は帰郷。以後は日本での業績。

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井伏の作品中での位置付け

井伏の作品は1927年のデビュー以後、日常的なものを題材とすることが多かった。

井伏は1930年から、平家物語に題材をとった『さざなみ軍記』の執筆を始め、歴史小説に分野を広げた。

1932年の『日本漂民』では、光太夫津太夫などのロシアへの漂流を、1935年の『無人島長平』は、万次郎と同じ鳥島に流された野村長平を描き、漂流民への関心を深めていた。

執筆経緯

「直木賞受賞者 井伏鱒二氏との一問一答」より

「ジョン万」の材料は平野君から借りたものだ。平野君の知合の河出書房で風流標民奇譚といふ叢書を出版するから、書かないかとすすめられて書下ろしたものである。私は昨年の夏、暑熱とたたかひながら苦しんで書いた記憶がある。長い材料を百五十枚に短くまとめた。 初出 信濃毎日新聞 1938年2月23日

「時計・会・材料その他」より

資料は平野嶺夫[注:平野零児]が木村毅から借りて私に貸してくれたので、図書館に出かける面倒を省くことが出来た。しかし私は記録文学とは如何なるものであるか定見がない。ただ文献にしたがって読物を書く立場で書いた。ジョン万次郎は過去の実在の人物である。万次郎の末孫の人も詳しい一代記を書いてゐる。石井研堂氏も中浜万次郎漂流記を書いてゐる。明治時代には市川団十郎が、万次郎物語を歌舞伎座で上演したことが記事に残ってゐる。アメリカやハワイの新聞記事から採った記録もある。だから、かちかち山や桃太郎の話を書くやうなもので、私は書くとき別に間の悪さをおぼえなかつた。 初出 別冊文芸春秋 1954年12月)

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出典についての井伏の注釈

第6章で万次郎はカリフォルニヤに行く。初刊本では

オスレハといふところの鉱区で野宿しながら金を採取した。(この顛末は前述の書「ゴールド・ラッシュ」第三章に詳しく書いてある。石井研堂編「漂流奇談全集」から引用したといふことであるが、本書の内容もまた研堂翁の著『中浜万次郎』その他によるものである。)

と出典を明記していた。(上記引用は1997年の筑摩書房全集『ジョン万次郎漂流記』による。) しかしその後の再刊書では、この注記は抹消された[10]

各章の概要

一 万次郎等五名の漁師、浪の間に間に漂うこと
天保12年(1841)1月7日(万次郎は数えで15歳)足摺岬沖で嵐にあい漂流、13日に鳥島に上陸。
二 万次郎等、絶海の孤島に救け船を求めること
(以後西暦)同年6月、米国捕鯨船ジョン・ホーランド号により鳥島から救助される。
三 万次郎等、ますます故国を遠ざかること
一行は11月、オアホ島ホノルルに上陸。船長は利発な万次郎をかわいがり、米国本土で教育させたいと提案。
四 万次郎、大海に乗り出し捕鯨の快味を満喫すること
1843年から万次郎はマサチウセツ州ハアヘイブンで教育を受ける。1846年にフランクリン号の捕鯨船員となって世界をめぐる。1848年、7年ぶりにホノルルで他の3人と再会(重助は1846年に死んでいた)。
五 伝蔵等、日本入国に失敗し運つたなくハワイに帰航すること
伝蔵親子 [注 3] による物語。1848年に捕鯨船で日本近海に行ったが、上陸は許されなかった。
六 ジョン万、米国に帰航して再びホノルルに渡ること
ジョン万は1850年にカリフォルニヤで金をかせぎ、ホノルルに戻り、米商船サラーボイド号で帰日を計画。
七 ジョン万等、首尾よく琉球に漕ぎ寄せて生れ故郷に帰ること
嘉永4年(1851)1月、3人は琉球国摩文仁間切に上陸。7月薩摩へ。9月長崎へ。翌年7月土佐へ帰った。
八 万次郎、官船に乗り再び亜米利加大陸に渡ること
嘉永6年(1953)にペリーが来た。万次郎は11月に幕臣になり、代官江川英龍の下で働く。1860年、33歳で咸臨丸の通訳としてまた米国へ。
九 万次郎、風雲急をつげる折りから、雄藩に迎えられ顧問となること
1864年薩摩で航海術を、1868年高知で英語を教授。1871年隠居。1898年に満71歳で死去。
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先行作品との異同

長崎口書漂客談奇難船人帰朝記事漂巽紀畧万次郎帰朝談戸川作品石井作品井伏作品東一郎作品
漂流時の万次郎の年齢131415151514151516
伝蔵と五右衛門兄弟兄弟兄弟兄弟兄弟親子親子親子兄弟
漁船の持ち主伝蔵不明徳丞徳右衛門不明徳之丞徳之丞徳之丞徳右衛門
1841年1月鳥島上陸日13日14日14日14日13日14日13日13日14日
Whitfield船長帰宅時の家族妻,男子,姉妻死,先妻の娘姉と先妻の子妻死,独居不明妻死,独居妻死,男子と姉妻死,男子と姉妻死,独居
1843年万次郎の寄寓先船長宅アレンの娘宿アレン家不明桶職アレン家桶職アレン家桶職アレン家エーキン家
1850年ホノルル発の日10月25,6日不明11月10月下旬不明11月下旬10月25,6日10月25日12月17日
1851年鹿児島上陸日7月30日7月下旬7月29日8月1日不明8月1日8月1日7月30日8月1日
長崎での踏み絵不明10月1日10月1日10月1日不明11月22日11月22日11月21日11月22日
  • 『漂洋瑣談』はほぼ『漂巽紀畧』と同じため省略した。
  • 上記のように、井伏はほぼ石井作品に拠っている。石井は多くを戸川作品に拠っている。
  • 伊藤が論証した[4]ように、井伏が中浜東一郎の著作を参考としていないことはあきらか。
  • 井伏が石井作品とあえて記述を変えた点は、長崎での口書[5]にしたがったとすればほぼ説明できる。
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特徴

「漂流記」であるので、幕末以来の万次郎に関する漂流譚と同じく、漂流・海外体験に重点を置く。ただし帰国後の日本での業績については、石井以前の先行作品よりやや詳しい。

一方、中浜東一郎の著作以後、万次郎については、日本での業績についても注目されるようになった。帰国後の業績についての井伏の扱いは、幕末以来の漂流譚と、東一郎以後の著作群との、中間といえる[注 4]

評価

この作品は1938年上半期の直木賞を受賞した。以下は選評[11]から。

大佛次郎

史実を素朴に貫きながら、終始、人生に対する作家の瞳が行間に輝いてゐるのである。

小島政二郎

専ら文章の美しさと、ストーリーを通る水際立った練達堪能の見事さに敬服しながら読んだ。

吉川英治

僕は井伏君の人間と素質のほうを、この作品以上に思ってゐるので、これを以て、井伏君の代表的作品と見なす事は不満である

菊池寛

直木賞も、井伏君を得て、新生命を開き得たと思う。井伏君を大衆文学だと認めたのではなく、井伏君の文学に、我々は好ましき大衆性を見出したのである。

影響

この作品は万次郎に「ジョン万次郎」の通称を与え、多くの日本人が知る名となった。 この作品も、万次郎について日本でもっともよく知られる伝記になった。

直木賞の受賞で、井伏の文名も確立した。

脚注

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