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タブリーズ
イランの都市 ウィキペディアから
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タブリーズ(ペルシア語: تبریز; Tabrīz [tæbˈɾiːz] ( 音声ファイル))はイラン北西部の都市。東アーザルバーイジャーン州(東アゼルバイジャン州)の州都。人口は約140万人でイラン第4位。
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歴史
この都市がいつ建設されたかには諸説あり、その歴史は少なくとも3世紀のサーサーン朝までさかのぼることができる。タブリーズの名は、297年にアルメニア王国の王ティリダテス3世の名に因んでタウリス (Tauris) と呼ばれたことに由来する。その後、アラブ人のイスラム勢力が侵攻する。8世紀のアッバース朝のカリフであったハールーン・アッ=ラシードの妻の一人によって再建された。
モンゴルの侵攻を受けた13世紀後期以降、アルグンによってイルハン朝(イル=ハン国)の都とされ、新たに城壁も築かれた。またペルシア語ではなくアルタイ諸語がタブリーズやアゼルバイジャンに広がっていく。その後、1375年から黒羊朝(カラ・コユンル朝)の都となったが、1392年にはティムールの攻撃を受けた。さらに1469年に黒羊朝を追った白羊朝(アク・コユンル朝)の都となった。さらに、白羊朝を滅ぼしたイスマーイール1世が1501年にタブリーズに入城、このサファヴィー朝も、1548年のガズヴィーンへの遷都まで都とした。1514年、チャルディラーンの戦い後、オスマン帝国の一時的な占領を経験する。オスマン帝国との抗争は続き、1585年から1603年にかけて再度オスマン帝国の支配を受け、その後サファヴィー朝の領有に復してから、交易都市としての発展が始まった。1724年にはまた占領される。1826年、今度はロシアが占領、1828年に奪い返し、ガージャール朝の皇太子の宮殿などが造られた。
20世紀になると1905年から1911年にかけてイラン立憲革命の中心地となる。第二次世界大戦後、ソ連はイラン北西部に傀儡政権・アゼルバイジャン国民政府を樹立(1946年)、タブリーズにその都が置かれたが、ほどなくソヴィエト軍は撤退、タブリーズはイラン領に戻った。
地震活動の活発な地域であり、歴史的な遺跡はあまり残っていない。イルハン朝の時代、13世紀初頭に建設された要塞の跡、アルゲ・タブリーズやマスジェデ・カブード(ブルー・モスク)などが有名。
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地理
テヘランから約600km。サハンド山(3,710m)の北側、標高1350mに位置する。イランでも非常に古い歴史を持つ地域で[1]住民の多くはアゼルバイジャン人であり、アゼリー語が使われている。
気候
要約
視点
気候は寒冷かつ乾燥し、ケッペンの気候区分ではステップ気候に属し冷え込みが激しく氷点下20度を下回る事も珍しくない。
経済
イラン北西部の経済の中心地である。タブリーズの経済は、商業、サービス業、ヘルスケア、製薬、軽工業、重工業、手芸をベースとしている。
市内には、中東最古のバザールであり、世界遺産にも指定されているタブリーズのバザールが存在する。
交通
鉄道
地下鉄
空港
教育
スポーツ
関連項目
脚注
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