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タルソスのペラギア
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ペラギア(ギリシア語: Πελαγία、生年不明 - 4世紀初頭)もしくは殉教者ペラギア(ギリシア語: Πελαγία ἡ Μάρτυς)は、キリスト教における伝説的な聖人、殉教者。ディオクレティアヌス帝治世下のローマ帝国・キリキア属州のタルソスで生活していたと伝えられており[3]、 ペラギアの名を持つ他の聖人や殉教者と区別するため、タルソスのペラギアと呼ばれる。もともとの記念日は、エルサレムのペラギアやアンティオキアのペラギアと同じ10月8日に設定されていた[4]。
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伝承
言い伝えによると、帝位継承者であったディオクレティアヌス帝の息子がペラギアと恋に落ち、彼女との結婚を望むようになった。ペラギアは、処女を守ることを誓い、既にキリストと結婚していることを理由に結婚を断ったが、その悲しみのあまり息子は自殺してしまったとされる。その後、異教徒の母親によってローマへ送られたペラギアに、ディオクレティアヌスは自身の妻になるよう迫った。この申し出を狂った皇帝だと罵って断った彼女は、その罪で火刑に処せられたが、溶けた肉体から香る没薬の匂いが、ローマ中に漂ったと伝えられている。なお、処刑の際にファラリスの雄牛が用いられたとする説も存在する。この言い伝えは、ペラギアの遺骨を取り囲むために、異教徒が4頭のライオンを放ったが、ライオンはキリスト教の司教が遺骨を回収するまで、ハゲワシやカラスから遺骨を守ったとする話で締めくくられている。
正確性
ペラギアに関する言い伝えの歴史的な正確性は低く、そもそもディオクレティアヌス帝にはガレリア・ウァレリアという娘はいたが、息子はいなかった。ただ、ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国におけるキリスト教への最後の大迫害を行っており、実際に多くのキリスト教徒が火刑に処せられている。そのため、ペラギアの言い伝えとは状況が異なるとしても、当時実際に殉教した人物である可能性は残されている。アンティオキアのペラギアに関する伝説が、どこかの時点でタルソスにまつわる殉教者の伝説として脚色されたとする説も存在する[2]。
脚注
参考文献
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