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タレンティドガール

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タレンティドガール[1]日本競走馬および繁殖牝馬

概要 タレンティドガール, 欧字表記 ...
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競走馬時代

4歳1月にデビュー、3戦目で勝ちあがった。このときの騎手はマックスビューティの手綱を取ることになる田原成貴であった。続く初のレースでもメジロライアンの姉であるメジロフルマーを振り切って2勝目をあげた。しかし次走のフラワーカップで11着に惨敗、詰まったローテーションもあり目標をオークスに絞った。そしてオークスでは、圧倒的1番人気に応え勝利したマックスビューティの3着に食い込むが、当時は注目を集めなかった。

北海道の条件戦を勝利するも、エリザベス女王杯(当時は〈旧〉4歳牝馬のみが出走でき、古牝馬には開放されていなかった)の前哨戦であったクイーンステークスで3着に敗れたタレンティドガールは4番人気だった(1番人気はマックスビューティ)。レースでは直線で先頭に立ったマックスビューティを、外から差し切り重賞初制覇をGI優勝で飾った。

その名の由来は馬主の夭折した娘にちなみ「才媛」と言う意味でタレンティドガールと名付けられており、このエリザベス女王杯の日がちょうど13回忌だったという。また兄ニッポーテイオー天皇賞・秋マイルチャンピオンシップを勝っており、1ヶ月で兄妹あわせてGI3勝という記録を達成している。

その後有馬記念中山牝馬ステークスに敗れ引退した。

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競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[2]およびJBISサーチ[3]に基づく。

さらに見る 年月日, 競馬場 ...
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繁殖牝馬時代

生まれ故郷の千代田牧場で繁殖入りした。ライバルであるマックスビューティ同様ヨーロッパに渡りナシュワンソヴィエトスターと交配されるなど期待されたが不受胎が多く、自身の産駒ではセントライト記念アルゼンチン共和国杯でともに3着に入ったシンコウシングラーが出世頭であった。一方、孫世代以降の産駒での重賞勝ち馬としては、孫(ライジングサンデーの子)にエーシンホワイティファルコンステークス新潟ジャンプステークス)、曾孫(エミネントガールの孫)にドリームセーリング京都ジャンプステークス)、ホエールキャプチャヴィクトリアマイル)、パクスアメリカーナ京都金杯)がいる[4][5]

2008年11月13日老衰のため安楽死の措置がとられ、24歳で死亡した[6]

産駒一覧

さらに見る 生年, 馬名 ...

血統表

タレンティドガール血統(血統表の出典)[§ 1]
父系ブレニム系ブランドフォード系
[§ 2]

*リマンド
Remand
1965 栗毛
父の父
Alcide
1955 鹿毛
Alycidon Donatello
Aurora
Chenille King Salmon
Sweet Aloe
父の母
Admonish
1958 芦毛
Palestine Fair Trial
Una
Warning Chanteur
Vertencia

チヨダマサコ
1977 鹿毛
*ラバージョン
Lover John
1971 栗毛
Damascus Sword Dancer
Kerala
Evening Primrose Nashua
Blue Grotto
母の母
ミスオーハヤブサ
1973 鹿毛
*パーソロン
Partholon
Milesian
Paleo
ワールドハヤブサ *ダイハード
オーハヤブサ
母系(F-No.) ワールドハヤブサ系(FN:12) [§ 3]
5代内の近親交配 My Babu 5・5=6.25% (母内) [§ 4]
出典
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脚注

外部リンク

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