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ダニエル・フォンセカ
ウルグアイのサッカー選手 ウィキペディアから
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ダニエル・フォンセカ(Daniel Fonseca、1969年9月13日 - )は、ウルグアイ・モンテビデオ出身の元同国代表の元サッカー選手(FW)。引退後は代理人として活動しており、クライアントにはマルティン・カセレスやレアンドロ・カブレラ、フェルナンド・ムスレラらがいる。息子のニコラス・フォンセカ、マティアス・フォンセカもウルグアイ代表のサッカー選手[1]。
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クラブ経歴
地元モンテビデオのナシオナル・モンテビデオに入り、1988年にトップチームに昇格し、プロサッカー選手としてのキャリアを始めた[2]。この年チームはインターコンチネンタルカップを制したが、ベンチ入りも出来なかった[2]。一方のレコパ・スダメリカーナでは、第1戦で1戦と2戦を通じての唯一の得点を挙げて優勝に貢献した[2]。
1990年のワールドカップ前、西ドイツとの親善試合に出場、この時左ウイングとしてのプレーにカリアリの目に留まり、クラウディオ・ラニエリ監督が獲得を望んだこともあり、イタリアのカリアリに同胞のエンツォ・フランチェスコリ、ホセ・オスカル・エレーラと共に移籍した[2]。加入直後は力を出せずにいたが、徐々に本来の力を見せた[2]。
1992-93のシーズン、SSCナポリを率いることになった、ラニエリ監督の強い希望でナポリへと移籍[2]。カレッカ、ジャンフランコ・ゾラとの攻撃陣はいいコンビネーションを見せるなど、すぐに活躍を見せた[2]。2シーズンで、通算40試合で24ゴールを挙げた(セリエAで31得点を挙げた)[2]。
1994-95シーズンからASローマへ移籍した。ローマではアベル・バルボとツートップを組んだが、怪我に悩まされたこともあり、ナポリ時代程は活躍は出来なかった[2]。ローマでの3シーズンで79試合で28得点を挙げた[2]。
ナポリ時代フォンセカを指導し、信頼を置いていたマルチェロ・リッピ監督に誘われ、1997年ユヴェントスへ移籍[2]。ユヴェントスでは、度重なる怪我に悩ませられ続けたが、大事な試合でゴールを挙げるスーパーサブとして、ファンの記憶に残る存在となった[2]。1997年のスーペルコッパ・イタリアーナで優勝、1997-98年シーズンにはリーグ制覇、UEFAチャンピオンズリーグでは準優勝した。3年間で69試合で18得点を挙げた[2]。
1999年-2000年のシーズンから再び怪我を繰り返すようになる。その後はアルゼンチンのCAリーベル・プレート、古巣のナシオナル・モンテビデオ、イタリアのコモ・カルチョに移籍するも怪我が多く、殆ど試合に出場できないまま、2003年に33歳で引退した[2]。
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代表経歴
1990年2月2日にウルグアイ代表デビューを果たした[2]。1990年のワールドカップイタリア大会に2試合出場。グループリーグ突破に向けて勝つしかない最終戦の韓国戦で0-0の試合終了間際に値千金の決勝ゴールを決め、チームの決勝トーナメント進出に貢献した[2]。
W杯アメリカ大会、W杯フランス大会では南米予選で敗退し、W杯出場は90年の一回に終わった[2]。
1995年に地元ウルグアイで開催されたコパ・アメリカでは、決勝でブラジルをPK戦の末の下して優勝。この大会では2得点を挙げた[2]。代表チームでの通算成績は30試合10得点[2]。
プレイスタイル
ストライカーとして優れていただけでなく、アシスト役としても優れていて、芸術の域にも達する程の高精度なクロスで味方のゴールを演出した[3]。
タイトル
- ナショナル
- コパ・インテルアメリカーナ : 1988
- レコパ・スダメリカーナ : 1988
- プリメーラ・ディビシオン : 2002
- ユヴェントス
- セリエA : 1997-98
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 1997
- UEFAインタートトカップ : 1999
- ウルグアイ
- コパアメリカ : 1995
代表歴
- ウルグアイ代表 1990-1997
- 代表通算:30試合出場 11得点
- 1990 W杯イタリア大会 (ベスト16、2試合出場1得点)
- コパ・アメリカ1995 (優勝、4試合出場2得点)
脚注
外部リンク
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