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テキサスタワー乱射事件

1966年のアメリカ・テキサス大学オースティン校での銃乱射事件 ウィキペディアから

テキサスタワー乱射事件
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テキサスタワー乱射事件(テキサスタワーらんしゃじけん、: University of Texas tower shooting)とは、1966年8月1日アメリカ合衆国テキサス大学オースティン校で発生した銃乱射事件である。

概要 テキサスタワー乱射事件, 場所 ...

概要

1966年8月1日正午、元海兵隊員で、テキサス大学の大学院生であるチャールズ・ホイットマンテキサス大学オースティン校本館時計塔にM1カービン銃、レミントンM700狙撃ライフル等の銃器、立て籠もりのための食料等を持ち込み、受付嬢や見学者を殺害した後に同時計塔展望台に立て籠もり、眼下の人を次々に撃ち始めた。

事件の一報を受けたオースティン警察が出動するも、90mもの高さを利用した射撃に歯が立たず、警察が地下水道からタワーに侵入してチャールズを射殺するまでの96分の間に警察官や一般市民など15名の犠牲者(犯人のチャールズを含まず。当時腎臓を撃たれて重い障害が残り、後に死亡した1名と、被害者の1人の胎内にいた胎児を含めて16名ないし17名とする場合もある)、31名の負傷者を出す等、2007年4月16日バージニア工科大学銃乱射事件が起きるまで最悪の学校銃乱射事件となった。

犯人

要約
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チャールズ・ジョセフ・ホイットマン(1963年)

チャールズ・ジョセフ・ホイットマン(: Charles Joseph Whitman)は、1941年6月24日フロリダ州レイクワースにて、母マーガレット・E・ホイットマンと父チャールズ・A・ホイットマンJr.の間に、3人兄弟の長男として生まれた[1]

父親チャールズ・A・ホイットマンJr.は、ジョージア州サバンナの孤児院で育ち、「たたき上げ: self-made man)」を自称していた。チャールズ・A・ホイットマンJr.は、家族をきちんと養う一方で、家族に従順かつ完璧であることを要求し、妻や子供によく家庭内暴力をふるった。また、チャールズ・A・ホイットマンJr.は銃器愛好家でもあった。チャールズ・ジョセフ・ホイットマンたち兄弟は幼い頃から射撃や銃器整備の方法を教えられ、定期的に狩猟に連れて行かれた[1]

幼少期のチャールズは、礼儀正しく聡明な子供だった。6歳時点の検査で、IQは139と算出された。チャールズの優秀な学業成績は、両親からの期待を集める要因となったが、その期待の裏返しとして、失敗や無気力を理由とした父親からの虐待の原因にもなった[1]

11歳のときに入団したボーイスカウトアメリカ連盟(BSA)では、当時世界最年少の12歳3ヶ月でボーイスカウト最高位のイーグルスカウト英語版に昇格。高校卒業後に入隊したアメリカ海兵隊では、一級射手英語版: sharpshooter)の射撃技能章英語版を獲得[注釈 1]。海兵隊での任務終了後は、海軍下士官科学教育プログラム(: Naval Enlisted Science and Education Program、NESEP)の奨学金に応募し、メリーランド州の予備学校を経て、テキサス大学オースティン校に編入することが認められた[2]

事件当時は犯行の舞台となったテキサス大学建築学を学ぶ大学院生であった。性格は穏やかで快活。冗談がうまく、子供好きで、誰にでも愛想が良く、「模範的なアメリカの好青年」であったといわれている。大学へは1961年に入学し、当初は海軍下士官科学教育プログラム (: Naval Enlisted Science Education Program) で奨学金を得ていた[3]。妻に出会い、結婚したのは在学中のことだった。しかし、学業は順風満帆とはいかなかった。ギャンブルにのめりこみ、成績も悪かった。1963年には奨学金受給資格を失った[4]

1966年、両親が離婚したころから発作的な暴力衝動や激しい頭痛に悩まされるようになり、カウンセリングを受けている。事件に先立ち「悲しませたくないから」という理由で妻と母を殺害、死後に自分を解剖をするよう希望する遺書を遺している。また、この遺書には、父親に対する憎悪の念が生々しく記されていた。他に、父親と弟に宛てた遺書も残されているが、父親宛ての遺書は現在も公表されていない。事件後、実際に解剖が行われ、視床下部の部分からくるみ大[注釈 2]腫瘍が発見された。この腫瘍が脳の扁桃核を圧迫し、暴力衝動を誘発していたとも考えられたが、事件へどの程度影響したかや、事件の詳しい動機などはよくわかっていない。

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事件の経過

要約
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母と妻の殺害

8月1日の午前0時から午前3時ごろ、ホイットマンは母のマーガレット・ホイットマン (: Margaret Whitman) と、妻のキャサリーン・ライスナー・ホイットマン (: Kathleen Leissner Whitman) を殺害した[5][6][7]。残した書置きによれば、ホイットマンは母と妻を愛していたが、後に辱めを受けることのないように2人を殺害したという[8]

その後の午前中、ホイットマンは台車を借り、銀行で250ドル (2023年時点の$2,300と同等) の不渡り小切手を現金に換えた。それから車でホームセンターに向かい、30口径ユニバーサルM1カービン、弾倉を追加で2つ、弾薬を8箱購入した。レジ係にはイノシシの狩猟のためと伝えた[5]。銃販売店ではカービン弾の弾倉をさらに4つ、弾薬を6箱、缶入りの銃洗浄液を購入した[9]シアーズでは12ゲージのシアーズ・モデル60半自動散弾銃を購入し、その後に帰宅した[10]

その後、ホイットマンはトランクに狩猟用のボルトアクションライフルであるレミントンM70035口径英語版のポンプアクションライフル、M1カービン、ルガーP08ガレシ・ブレシア英語版S&W M19、散弾銃 (銃身と銃床を切り落としたもの)、700発を超える弾薬を入れた。他にも、パック詰めの食物やコーヒー、ビタミン剤、デキセドリン (興奮剤)、エキセドリン (鎮痛剤)、耳栓、水差し、マッチ、ライターの燃料、ロープ、双眼鏡、鉈、ナイフ3本、トランジスタラジオ、トイレットペーパー、剃刀、防臭剤も詰め込んだ[5]。また、シャツとジーンズの上にカーキ色のつなぎを身に着けた[11]

キャンパスへの侵入

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シャーロット・ダレショリが旗立ての後ろに避難している。垣根のそばでは負傷した学生が横たわっている。
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殺害されたカレン・グリフィスは当時17歳だった。

午前11時25分ごろ[5]、ホイットマンはテキサス大学オースティン校に到着した。偽のリサーチアシスタントのIDを見せて駐車の許可を得ていた[5]。ホイットマンは荷物を運びながら大学の本館 (: Main Building) へ向かった[11]。本館に入ったところ、エレベータが稼働していなかった。係員のヴェラ・パーマー (: Vera Palmer) がエレベータを起動すると、ホイットマンは次のような感謝の言葉を繰り返し述べたという。"Thank you ma'am."[12] (直訳すると「ありがとう、お嬢さん」) "You don't know how happy that makes me."[5] (直訳すると「どれほど嬉しかったことか」)

ホイットマンは27階でエレベータを出ると、台車と荷物を持って階段と廊下を進み、展望デッキの近くの部屋に向かった[3]。そこには受付係のエドナ・タウンスレーがいた。

被害者

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警察の行動

一部の人は、銃声を近くの工事現場の騒音と勘違いした[7]。地面に倒れる人を見て、劇団のパフォーマンスだろうと思った人[22]や反戦を訴える抗議活動だろうと思った人もいた。ある被害者は血を流して倒れていたところを、演技と思われたのか通りすがりの人に叱責されて、起きろと言われた[23]。 状況を把握した人々の中には、自らの危険を顧みずに負傷者を安全なところへ連れて行った人もいた。現金輸送車や地元の葬儀屋からの傷病人搬送車が、負傷者に接近するための手段として利用された[18]

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ホイットマンのライフルと、銃身が切り落とされた散弾銃

ホイットマンが時計塔から銃撃を始めてから4分後の午前11時52分、歴史学教授がオースティン警察署英語版に最初の通報を行った[5]。巡査のビリー・スピードは最初に現場に到着した警察官の1人であり、同僚の1人とともにバラスターを遮蔽にした。しかし、ホイットマンの銃弾がバラスターの間の15センチメートルほどの隙間を抜けてスピードに命中した。これによりスピードは死亡した。

警察官のヒューストン・マッコイ (: Houston McCoy、当時26歳) は無線機から銃撃についての話を聞いた。時計塔への道を探していたところ、学生が助けを求めに現れて、自宅にライフルがあると伝えた。マッコイは学生を車で家まで送り届け、ライフルを借りた[24]

アラン・クラム (: Allen Crum、当時40歳) はかつては空軍の尾部銃手であり[25]、事件当時は大学生協の書店の店長だった。通りの向こうで17歳の新聞配達の少年が引きずられているのを見て喧嘩だと思い、やめさせようとした。しかし、少年は撃たれたことを知り、銃声も聞こえたため、通りを歩く人々を危険のない場所へ誘導した[25]。安全に書店に戻ることができなくなったため、時計塔の方へ進んだ。時計塔に着いた後、警察に助力を申し出た。時計塔の中では、公安局のダブ・コーワン (: Dub Cowan) とオースティン警察のジェリー・デイ (: Jerry Day) に同行してエレベータに乗った。コーワンはクラムにライフルを渡した[3]

午後12時ごろ、警察官のラミロ・"レイ"・マルティネス英語版 (: Ramiro "Ray" Martinez) は非番で自宅にいた[26]が、ニュースで事件のことを知った。警察署に電話をすると、キャンパスに行って人々を誘導するように指示を受けた[27]。現場に着くと、既に他の警察官たちが誘導を行っていたため、時計塔に向かった[28]。 時計塔には警察官のチームがいるだろうと思っていたが、27階に着くと、そこにいたのはコーワン、クラム、デイの3人だけだった[29]

時計塔に向かおうとした警察官たちは、身を隠しつつの遅々とした移動を迫られた。しかし、ヒューストン・マッコイを含む少数の警察官たちが、地下にあるメンテナンス用のトンネルを通じて時計塔に辿り着くことができた[30]。警察官たちや数名の市民は、小火器や狩猟用ライフルを使って地上からの制圧射撃を試みた。ホイットマンは射撃をかわすために身を屈め、展望デッキの壁の根本にあった排水孔から発砲した。軽飛行機に乗った警察の狙撃手はホイットマンに撃ち返されて撃退された[31]。それでも、距離をとって旋回を続けて、ホイットマンの邪魔をしつつ、標的を選ぶ余裕を奪おうとした[5]

マルティネス、クラム、デイは27階を捜索し、M・J・ガボーを発見した。デイがガボーを移動させた。マルティネスは階段を上って展望デッキへ向かった。クラムはマルティネスを援護したいと強く申し出て、最初は自分が代理になることを買って出た[5]

受付エリアへ繋がる階段吹抜の下で、マルティネスはマーガレット・ランポート、マーク・ガボー[32]、メアリー・ガボー、マイク・ガボーを発見した。マイク・ガボーは展望デッキの方を指して、犯人がそこにいることを伝えた[5]

マルティネスが最初に展望デッキに到着した。マルティネスはクラムにドアの元に留まるように伝えた。数分後にマッコイとデイも展望デッキについた。ある時点でクラムがライフルを誤射した。

午後1時24分ごろ、ホイットマンがライフルがどこから発砲されたか探そうと南の方を探していた。一方で、マルティネスとマッコイは展望デッキの北東の角を曲がっていた。マルティネスが躍り出て、ホイットマンの方に向けてリボルバーを発砲したが、すべて外した。マルティネスが発砲しているところを、マッコイが飛び出て、ライトバラストを見ているホイットマンの頭を目撃した。マッコイはライトバラストのてっぺんに向けて撃った。いくつかの散弾がホイットマンの眉間に命中し、ホイットマンは即死した。マッコイは再び発砲し、弾丸はホイットマンの左半身に当たった。マルティネスはマッコイの散弾銃を握り、うつぶせになったホイットマンの元へ走り寄り、ホイットマンの左腕に散弾銃の直射を浴びせた。そのすぐ後に、マルティネスは地上の人々から危うく銃撃を浴びせられかけた。地上の人はホイットマンの死に気づいていなかったのであった[3][32]

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事件の余波

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事件の記念碑

マルティネスとマッコイはオースティン市から勲章を授与された[24]

銃撃事件の後、時計塔の展望デッキは閉鎖された。銃撃の跡を補修した後、1968年に再開した。しかし、4件の自殺が発生し、1975年に再度閉鎖された[3]。ステンレスの格子といった保安上の改善がなされた後、1999年に再開した。しかし、公開は事前予約の必要な案内人付きのツアーに限られた。観光客は必ず金属探知器にかけられる[33][34]

2006年、メモリアルガーデンが死者やそれ以外の事件から影響を受けた人々に捧げられた[35][36]2016年、つまり事件から50年の節目に、被害者の名前が刻まれた記念碑が設立された[37] [38]。午前11時48分に塔の時計が24時間停止された。オースティン市はこの日を「ラミロ・マルティネスの日」(: Ramiro Martinez Day) と宣言した[39]

2008年、オースティン警察署の銘板に、ホイットマンを止める助けになった人々の名前が追加された[40]。銘板に刻まれた名前は次のとおりである。

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2014年、クレア・ウイルソンの殺害された息子の墓が、ノンフィクション作家のゲイリー・ラバーン英語版 (: Gary Lavergne) により再発見された。その後、オースティン記念公園墓地 (: Austin Memorial Park Cemetery) で墓石が贈られた。墓石には十字架が刻まれ、さらに"Baby Boy Wilson / August 1, 1966"と記されていた[41]

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エピソード

関連作品

石油貯蔵タンク上からの乱射シーンは本事件をモデルとしており、犯人(主人公)役のティム・オケリーはチャールズ・ホイットマンに似ているため配役された。
マッコイは自分がこの映画で臆病者として描写されていると主張し、訴訟を起こした。最終的に訴訟は棄却され、マッコイは弁護費用の支払いを命じられた[42][43]
本事件をモデルとしたチャールトン・ヘストン主演のパニック映画。
本事件を紹介している。
  • 『大量殺人者』(ノンフィクション)
  • Tower』(映画)
アメリカの作曲家のジェニファー・ジョリー (: Jennifer Jolley) はThe Eyes of the World are Upon Youという楽曲を、2017年のテキサス大学オースティン校でのウィンドアンサンブルに向けて制作した。この作品は、銃撃事件の被害者に捧げられたものであり、また、2015年にテキサス州でキャンパスへの火器の持ち込みが認められたことへの反応でもあった[44]
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脚注

関連項目

外部リンク

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