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アンツィラナナ
マダガスカルの都市 ウィキペディアから
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アンツィラナナ(Antsiranana)とは、マダガスカルの北端に位置する都市。1975年まではディエゴ・スアレス(Diego-Suárez)と呼ばれていた。アンツィラナナはアンツィラナナ自治州、およびダイアナ地域圏の首府である。
交通
アンツィラナナは天然の良港を持つが、マダガスカルの主要地域から離れていること、最近まで南部への道路網が整備されていなかったことから、第二次世界大戦後は物流拠点としては重要視されなくなっている。なお市内のアラチャート空港からマダガスカル各地へ定期便が運航されている。
歴史
フランス領時代
旧名のディエゴ・スアレスとは、ここを訪れたポルトガルの航海者ディエゴ・スアレスにちなんで命名された[1]。
インド洋を行き交う財宝船をヨーロッパ人の海賊たちが襲い始めた「海賊周航」という時代には、フランス人の海賊船長ミッソンが都市の北部にあるアンツィラナナ湾に海賊共和国「リバタリア」を建国したという伝説がある。
1880年代にはいると、アンツィラナナの湾部は、蒸気船の給炭地を設けようとするフランスに狙われることとなった。フランスと当時マダガスカルを支配していたメリナ王国との最初の戦い(the first Franco-Hova War)の後、1885年12月17日に、メリナ王国の女王ラナバロナ3世はノシ・ベ島、サント・マリー島とともに、アンツィラナナとその周辺部をフランスの保護領とする条約に調印した。なお、これらの地域は1896年に他のフランス領マダガスカル植民地に包括された。
第二次世界大戦
→詳細は「マダガスカルの戦い」を参照
1940年にフランス本土がドイツ軍の占領下におかれた際に、マダガスカルの植民地政府が枢軸国側のヴィシー政権側についた上に、1941年にイギリス軍との間に開戦した日本軍が瞬く間にインド洋からイギリス軍を放逐してインド洋全域の制海権を握った。その後イギリス軍をはじめとした連合国軍は、日本軍がマダガスカルを無血占領しアフリカ大陸へ勢力圏を広げることを阻止すべく、1942年にアンツィラナナをはじめとするマダガスカル全土への侵攻を行い、ヴィシー政府軍との間に戦闘が発生した。
同年5月には、ヴィシー政権からの依頼を受けてマダガスカルに展開した日本海軍の潜水艦から発進した特殊潜航艇が、アンツィラナナ港に停泊していたイギリス海軍艦隊を攻撃しタンカー1隻を撃沈、戦艦1隻を大破させた。この作戦で座礁した特殊潜航艇乗組の日本軍将兵2名(秋枝三郎中佐と竹本正己特務少尉)が上陸、イギリス軍兵士と交戦し戦死している。またこの作戦では岩瀬勝輔少尉と高田高三二等兵曹も戦死しており、アンツィラナナに4名の慰霊碑が建てられている。
第二次世界大戦終結後に連合国軍は撤退し主権がフランスに返還された。その後1960年にマダガスカルが独立して以降もフランス軍はアンツィラナナに軍事基地を置いており、それは1973年にマダガスカルに社会主義革命が起こるまで続いた。
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切手
切手についてはディエゴ・スアレスの切手(en)を参照のこと。
気候
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出典
関連項目
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