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デメトリオス1世 (バクトリア王)

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デメトリオス1世 (バクトリア王)
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デメトリオス1世ギリシャ語:ΔΗΜΗΤΡΙΟΣ Α΄, ? - 紀元前180年頃)は、第4代グレコ・バクトリア王国国王エウテュデモス1世の子。西北インドに侵入してグレコ・バクトリア王国の最盛期を築いた。

概要 デメトリオス1世 ΔΗΜΗΤΡΙΟΣ Α΄, 在位 ...

生涯

父のエウテュデモス1世の時代、グレコ・バクトリア王国はセレウコス朝アンティオコス3世(在位:紀元前223年 - 紀元前187年)による侵攻を受けた。しかし、エウテュデモス1世は2年間の籠城戦に耐え、遂に両者は和平交渉に至る。この時、王子であったデメトリオスはアンティオコス3世の娘と婚約をしている。

父の死後、王位を継承したデメトリオス1世はヒンドゥークシュ山脈を越えてインド征伐に乗り出す。デメトリオス1世はまず南のアリアネ地方[1]を制圧し、そこに住むアリオイ,ドランガイ,エウエルゲタイ,アラコトイ,パロパミサダイなどの諸族を支配下においたと思われる。その頃の様子をストラボンは次のように記している。

メナンドロスとバクトリア王エウテュデモスの息子デメトリオスの両人が(アレクサンドロスの侵入以来)一番多くの部族を征服したことになる。この二人が手に入れた地域の中には、パタレネ地方[2]だけでなく、その他の沿岸地帯の中でもサラオストスの王国とシゲルディスの王国も入っていた。アルテミタのアポロドロスによると、バクトリアネ地方は総じてアリアネ地方全域の華であり、その上その支配をセレス[3],プリュナイ[4]両族にまで伸ばしていたという。ストラボン『地理誌』

こうしてアラビア海にまで達したデメトリオス1世はいよいよインドに進出し、ガンダーラ地方を制圧した。時に、インドではマウリヤ朝が将軍プシャミトラ・シュンガによって滅ぼされ、混乱時期にあったため、西北インド制圧はそれほど困難なものではなかったと思われる。この西北インド征服を祝してか、デメトリオス1世のコインにはの頭をかたどったをかぶった肖像が彫られており、銘文にはギリシャ文字のものと、インドのカローシュティー文字のものが併用されている。

デメトリオス1世はこの後間もなく亡くなったと思われ、弟のアンティマコス1世が後を継いでいる。

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子女

デメトリオス1世のコイン

脚注

参考資料

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