トップQs
タイムライン
チャット
視点
ハイド・パーカー (第5代準男爵)
ウィキペディアから
Remove ads
第5代準男爵サー・ハイド・パーカー海軍中将(英語: Sir Hyde Parker, 5th Baronet、1714年2月25日 - 1782年)は、イギリス海軍の指揮官。
生涯
初期の経歴
パーカーは現ウォリックシャーのトレディングトンで生まれた。祖父は第2代準男爵ヘンリー・パーカー(ソールズベリー主教アレクサンダー・ハイドの娘と結婚していた)で、父は聖職者だった。24歳のときにイギリス海軍に従軍、1748年にはポスト・キャプテン(海軍大佐の一種)に昇進した[1]。当時60万ポンドの価値があるスペイン・ガレオン船を拿捕したことで、家族が豊かになった。
七年戦争
→詳細は「七年戦争におけるイギリス」を参照
1755年10月、ハイド・パーカーはポスト・シップのスクアラールの艦長に任命され、翌年にはフランスの私掠船トレ・ヴェネラブル(Très Vénėrable)を拿捕した。
七年戦争の後半には東インド水域で戦い、1760年から1761年のポンディシェリー包囲戦と1762年のマニラの戦いに参戦した[1]。1762年10月30日の海戦ではマニラ・ガレオン船の1隻をアカプルコとマニラの間の回航中に拿捕した。
アメリカ独立戦争
1778年に海軍少将に昇進、副司令官として北米の水域に向かった[1]。ジョージ・ロドニーが到着する以前、リーワード諸島の指揮官であり、マルティニークでフランスに対しうまく立ち回った[1]。
1781年、帰国して海軍中将になった後、1781年8月5日にオランダ艦隊とドッガー・バンク海戦を戦い、お互い優勢を得られないまま撤退した。パーカーは任務に必要な能力が足りないと考え、辞任した[1]。
1782年7月10日に準男爵位を継承し[2]、その直後、東インド基地の指揮官に任命された[1]。しかし、任地に向かう途中に旗艦カト(Cato)が沈没、パーカーを含め全員が失われた[1]。
準男爵位は長男ハリーが継承した。次男のハイドは提督になった。
Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads