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ハイラム・パーシー・マキシム

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ハイラム・パーシー・マキシム
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ハイラム・パーシー・マキシム(Hiram Percy Maxim、1869年9月2日 - 1936年2月17日)は、アメリカ合衆国発明家であり、アマチュア無線の先駆者である。クラレンス・デントン・タスカ英語版とともに、全米規模のアマチュア無線組織であるアメリカ無線中継連盟(ARRL)を設立した。また、初めて商業的に成功した銃器用サイレンサーを発明したほか、内燃機関マフラーを開発した。

概要 ハイラム・パーシー・マキシム, 生誕 ...
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若年期

ニューヨーク市ブルックリン区1869年9月2日に生まれた。父は世界初の全自動式機関銃マキシム機関銃」を発明したハイラム・スティーブンス・マキシムである。叔父(ハイラム・スティーブンスの弟)のハドソン・マキシム英語版は、爆薬や弾道推進剤を発明した。妹のアデレードは、イグナツィ・パデレフスキのピアノ調律師として知られるエルドン・ジュベールと結婚した[1]

1875年に一家でニュージャージー州ファンウッド英語版に移り住んだ[2]

1886年、当時は2年制だったマサチューセッツ工科大学の機械工学科を17歳で卒業した[3]

キャリア

要約
視点

大学卒業後は、ボストンの様々な電力会社で働いた[4]

銃器と自動車

1892年からマサチューセッツ州リンのアメリカン・プロジェクタイル社に勤務した。マキシムは、内燃機関を作ろうとして、上手く行かなかった。後に、ドイツのマイバッハダイムラーベンツによるエンジン開発について知らなかったと述べ、「小さなエンジン1台を作るのにも非常に時間がかかることに驚いた」と述べている。ようやく内燃機関の燃焼に成功したが、振動がひどく、油、火、煙などを吹き出すという代物だったという[5]

1895年初頭、マキシムはアルバート・ポープ英語版の元を訪れ、それにより、彼が経営するポープ・マニュファクチャリング・カンパニー英語版の自動車部門で働くことになった。同年11月に開催されるシカゴ・タイムズ=ヘラルド・レース英語版に向けて自動車を開発したものの間に合わず、審判として参加した。会場でマキシムは、モリス&サロム社が製作した世界初の電気自動車であるエレクトロバット英語版IIに乗せてもらった。1899年、コネチカット州ブランフォード英語版でアメリカ初のクローズドサーキットでの自動車レースが開催され、マキシムが運転するガソリンエンジンのポープ・コロンビア号が優勝した。

マキシムは、初めて商業的に成功した銃器用サプレッサー(サイレンサー)を1902年頃に発明してその製造・販売を行い、1909年3月30日に特許を取得した[6]。マキシムは、自身が発明した装置を「マキシム・サイレンサー」(Maxim Silencer)という商標で売り出し[7]、雑誌に広告を掲載した[8]

また、サイレンサーの技術を応用して内燃機関用マフラーを開発した。英語圈の国の多くでは、自動車のマフラーは「サイレンサー」と呼ばれている[9]

アマチュア無線

マキシムはアマチュア無線を趣味としていた。1914年、アマチュア無線家同士でメッセージを中継する組織があれば良いと考え、地元のアマチュア無線クラブの会長のクラレンス・デントン・タスカ英語版とともアメリカ無線中継連盟(ARRL)を設立した。

マキシムのコールサインは、当初はSNY、1WH、1ZMで、第一次世界大戦後は1AWとなり、後にW1AW英語版となった。このコールサインは、マキシムの死後ARRLに移管され、ARRL本部のクラブ局のコールサインとなっている。ARRLは、21歳以下のアマチュア無線家とARRL会員を対象とした、マキシムの名を冠した賞を授与している[10]


著述

1933年、地球外生命体に関する当時の科学を解説した"Life's Place in the Cosmos"(宇宙における生命の位置)を執筆した。1936年、幼少期の父との思い出を書いた"A Genius in the Family: Sir Hiram Stevens Maxim Through a Small Son's Eyes"(家族の中の天才: 幼い息子の目を通して見たハイラム・スティーブンス・マキシム)と、自動車開発の先駆者として働いていた時期について書いた"Horseless Carriage Days"(馬なし馬車の時代)という2冊の自伝を発刊した。

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結婚と家族

マキシムは1898年12月21日に、メリーランド州ヘイガーズタウンでジョセフィン・ハミルトン(Josephine Hamilton)と結婚した。ジョセフィンは、元メリーランド州知事ウィリアム・トーマス・ハミルトンの娘だった[11]。2人はコネチカット州ハートフォードに住み、息子のハイラム・ハミルトン・マキシム(Hiram Hamilton Maxim)と娘のパーシー・ハミルトン・マキシム(Percy Hamilton Maxim)をもうけた。

娘のパーシーは、シカゴのジョン・J・グレスナー・ハウス英語版に名を残す実業家ジョン・J・グレスナーの孫のジョン・グレスナー・リー(John Glessner Lee)と結婚した。パーシーは女性有権者連盟英語版の会長を1950年から1958年まで務め、ジョン・F・ケネディ大統領から消費者諮問委員に任命され、委員長に就任した。また、大統領選挙での候補者討論会を提唱し、1955年には上院でジョセフ・マッカーシー上院議員に対抗する証言をした。

死去

1936年2月、アリゾナ州フラッグスタッフローウェル天文台を訪れるためにハートフォードの自宅から鉄道で移動中、車内で体調を崩し、搬送先のコロラド州ラ・フンタ英語版の病院で2月17日に死去した。

遺体は、メリーランド州ヘイガーズタウンのローズヒル墓地の、妻の実家の区画内に埋葬された[12][13]

大衆文化において

マキシムの幼少期についての自伝"A Genius in the Family"は、1946年に"So Goes My Love"のタイトルで映画化された。イギリスでは原作通りのタイトルに変更された。マキシムの役はボビー・ドリスコールが、両親の役はドン・アメチーマーナ・ロイが演じた。

特許

著書

  • Life's Place in the Cosmos, New York: D. Appleton, 1933.
  • A Genius in the Family, New York: Harper, 1936.
  • Horseless Carriage Days, New York: Harper, 1936.

脚注

参考文献

外部リンク

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