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ハンセン病療養所の特殊通貨

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ハンセン病療養所の特殊通貨(ハンセンびょうりょうようしょのとくしゅつうか、Leprosy colony money)とは、ハンセン病療養所においてのみ通用する通貨である。

政府発行の場合と、療養所独自の場合がある。これらの通貨はハンセン病の感染性が認められた後に作られ、コロンビア1901年の貨幣が、年号が入っているものとしては最古である。日本では1919年多磨全生園で最初に発行された。感染を予防する、隔離を完全にするなどの機能が考えられたが、その後必要性が認められなくなり、廃止された。

名称

特に決まった用語はなく、代理貨幣、代用貨幣、園券、園金(日本の療養所の多くは園という名前がついている)、院券(病院の券)、金券、園内通用銭、通知銭、コマ、札銭(フダジン、宮古南静園)などと呼ばれている。

歴史

要約
視点

最初の特殊貨幣

ハンセンがこの疾患をおこす菌を発見したのが1873年である。その後ドイツメーメル地方(Memel州、現在リトアニア)のハンセン病発生を受けて、1897年の第1回ハンセン病国際会議でようやく伝染説が国際的に確立された。その後、一部のらい療養所に菌の伝播を防ぐ目的で、その療養所だけに通用する通貨(主に貨幣)ができた。伝染性はそう強くないとも発表されたが、当時の理解では、必要とされたのである。らいのコロニーは当時既にハワイのモロカイ島などにあったが、最初に特殊貨幣が作られたのはコロンビアのAgua de Dios, Cano de LoroとContratacionという場所の3か所のコロニーであった。これはコロンビア政府が作った 2.5 Centavos, 5 Centavos, 10 Centavos, 20 Centavos, 50 Centavosの貨幣であり、マルタ十次会"Lazareto"とあるから、この会と関係あるものと思われる。材料には黄銅を用いた。裏面に "Republica de Columbia 1901" という刻印が押されている[1]。続いて1907年には銅ニッケルで1,5,10 Peso が作られた。1921年においても材料は同じであった。1950年代後半にコロニーは閉鎖され普通の通貨となった。

米国

米国で作られた特殊貨幣:1919年から1952年まで米国政府が作った特殊貨幣がある。当時の米国の委任統治下にあったパナマ運河地帯のPalo Seco Colony専用の貨幣で、米国政府が作っていた。1セント、5セント、10セント、25セント、50セントと1ドルの貨幣である。普通の通貨と区別するために、貨幣に穴がある[2]

フィリピン

フィリピンに存在するコロニーの為に政府が貨幣を作った。最初に確認できるものは1913年である。そこでの経済生活の必要性があり発行された。クリオン島の大きなコロニー以外でも使われた。日本との戦争時にはマニラとの連絡が途絶え、一時はクリオン島では紙幣が発行されたが、これは大きな島の経済生活を存続させるためである[3]

マレーシア

マレーシアではスンゲインブローコロニーの為に紙幣が作られた。5セント、10セント、1ドルの紙幣で、4ヶ国語で刷られているその紙幣は大変美しい。しかし療養所長の Gordon Alexander Ryrie が検査したところ、使い古した紙幣でも菌の存在は立証されず1938年に紙幣はすべて燃やされてしまった[4]

タイ

タイのチェンマイに所在するマッキーン療養所では、1908年から1950年に穴あき銭が使われた。これは普通のコインを加工して作られた。

日本

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多磨全生園の園内通用券

日本において最初に特殊通貨を作ったのは1919年の多磨全生園である。当時は特殊通貨の正当性に疑問があったので、多磨全生園における正式の文書の記載が極端に少ない[5]。そこでは1909年の創立以来患者からお金を取り上げて「患者保管金」としていたので、外国の制度を利用した可能性がある。それ以前に菊池恵楓園で使われたとあるが[6]、その後証明されていない。日本における特殊性は、通貨が政府でなく、園独自に作られたことである。患者の入所時に、一般の通貨は強制的に特殊通貨に引き換えさせられた。貨幣が一般的だが、紙幣もあり、その場合は通し番号がついた。クーポン券といってもよい場合もあり、プラスチック製もあった。多磨全生園の場合、貨幣の製造は徽章などを製造する所に発注した。法的に疑問があるとされるが、政府の内諾がないと作れない。日本の療養所の一部では、通帳を併用し、貧困者への小遣いを与える等に利用したところもある。貨幣も紙幣も、菌の伝染を防ぐために消毒された。

入所者は特に外部との関係で、一般の通貨(日本銀行券)を、不利な交換比率にもかかわらず好んだ。種々の不正事件が発覚したのが契機となり、日本における各療養所の通貨は昭和30年までに全て廃止された。廃止時、一般の通貨に換えられたが、軍政下の宮古南静園では、結局、一般の通貨とは換わらなかった。

日本における目的

  • 森幹郎(もりみきお)は日本における特殊通貨の目的を5つ挙げている。[7]
    • 1 感染の予防 らい予防法にもある。
    • 2 脱走の防止 これを第1にする人もあるが[注釈 1]、そうでもない人もいる。
    • 3 酒類の密売防止 酒類の入手を抑制していたのは事実とある。
    • 4 賭博の防止 大きな効果があった。
    • 5 現金の盗難予防 実際盲人においてはこの目的もあった。

多磨全生園での園内通用券発行高調査

さらに見る 発券, 発行金額 ...
  • 注:小額金券は1919年10月1日から1924年11月29日まで発行されたもので、最初の発行額は18,193円である。1952年の現在高はその後整理されたものである。
    • 園券廃止にあたって調査したところ、79万円不足となった。再調査したら739,745円の不足となった。個人支弁でなく、責任者も転勤とある。[9]

その他の国の特殊貨幣

ブラジル(貨幣)、中国(貨幣、1993年においても使用している)、コスタリカ(穴あき銭)、韓国、ナイジェリア(穴あき貨幣)、ベネズエラ(貨幣と紙幣)で使用された。韓国では小鹿島療養所と麗水の療養所(1銭と50銭紙幣)で使用された。

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文学作品に現れた特殊通貨

北條民雄の『いのちの初夜』に特殊通貨(金券)のことが出ている。主人公の尾田は入所時に風呂に入れられる際、看護婦から所持金の特殊通貨への交換を告げられ、以下のように感想を抱く。

「それではお荷物、消毒室へ送りますから―――。お金は十壱円八拾六銭ございました。二三日のうちに、金券と換えて差し上げます。」 金券と初めて聞いた言葉であったが、おそらくはこの病院でのみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を掴み取ると同時に、監獄にいく罪人のような戦慄を覚えた。北條民雄、『いのちの初夜』、ハンセン病文学全集1(2002) 皓星社、東京

隔離を目的にした療養所以外の通貨

大正時代から昭和の戦前にかけて、西表島西表炭坑では、労働者を強制労働のように使役し、会社の売店でのみ通用する金券を発行し、炭坑切符と称した。発行会社は西表炭鉱会社など数社あり、福岡県の炭鉱では「炭鉱札(券)」と称した[10]。また、大東諸島で使用された、南北大東島通用引換券の例もある。(大東島紙幣を参照)

類似する金券

性質が似ているものにクーポン券があり、ハワイやその他のコロニーで食堂などで使用された。

法的位置づけ

日本の財務省によると、ハンセン病療養所の特殊通貨は金券地方通貨と同じであるから、犯罪に関わらない限り、法的には問題はないという。

文献

Roger R. McFadden, John Grosst, Dennis F. Marr.The numismatic aspects of leprosy. Money, Medals and Miscellanea(1993) D.C.McDonald Associates, Inc. USA.

脚注

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