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バックウィート・ザディコ
アコーディオン奏者(1947年–2016年、アメリカ合衆国) ウィキペディアから
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バックウィート・ザディコ(英語: Buckwheat Zydeco、1947年11月14日 - 2016年9月24日[1])は、アメリカ合衆国ルイジアナ州出身のザディコ・ミュージシャン。本名は、スタンリー・デュラル・ジュニア(英: Stanley Dural Jr.)という。鍵盤アコーディオンを演奏し、クリフトン・シェニエの築いたブルースとロックンロール色の濃いサウンドをベースにしながらも、ロック、ポップを積極的に取り入れ独自の世界を作り上げた。大手レーベルアイランド・レコードからアルバムをリリースしたアルバム(1987年)がグラミー賞候補に推薦される[1]など、地元色の強いザディコ音楽の中では数少ないメジャーな展開をしたアーティストのひとりである。
ビル・クリントン大統領の2回の就任式(1993年1月、1997年1月)[2]、1996年アトランタオリンピックの閉会式でも演奏[1]。U2やボストン・ポップス・オーケストラとの共演歴もある[3]。
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来歴
ルイジアナ州ラファイエットに生まれた。幼少期に編み毛の形状が短編映画シリーズ『The Little Rascals』のキャラクター、バックウィート(ソバの実の意)に似ていたことからそのあだ名で呼ばれるようになった[4][5]。
1971年、ファンク・バンド、バックウィート&ザ・ヒッチハイカーズを結成し、活動を開始する。1976年にクリフトン・シェニエのバンドにオルガン奏者として加入した[1]。
1979年、バックウィート・ザディコ・イル・ソン・パルティ・バンド(Buckwheat Zydeco Ils Sont Partis Band)を結成する。「イル・ソン・パルティ」とはフランス語で「ヨーイドン」の意[2]で、ラファイエットの競馬場での掛け声から名付けたものである[4][6]。同年、ブルース・アンリミテッド・レーベルから『One for the Road』でデビューを果たした[7]。
その後、ブラックトップ、ラウンダーからアルバムをリリースしたのち、アイランド・レコードと契約。同レーベル2作目となる『Taking It Home』(1988年)ではゲストにエリック・クラプトンを迎え、デレク&ザ・ドミノスの「恋は悲しきもの」でクラプトンとのバトルを披露した。
1989年4月に初来日し、川崎、東京、神戸、京都、大阪で公演を行っている[8]。
自身のレーベル、トモロー・レコーディングスからアルバムを3枚リリースしたのち、ブルース・レーベルのアリゲーター・レコードと契約。2009年、『Lay Your Burden Down』をリリースし、グラミー賞の候補に推薦された。
2016年9月24日、肺がんのため、ルイジアナ州ラファイエットの病院にて死去。享年68[9]。
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ディスコグラフィー
オリジナル・アルバム
コンピレーション
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脚注
外部リンク
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