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ファシズム批判
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ファシズム批判(ファシズムひはん)とは、ファシズムを批判する事である。ここでは、主に戦前の日本でのファシズム批判について記述する。
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概要
戦前の支配勢力・運動・体制をどう規定するかは学問上問題のあるところである。一般にはファシズム、天皇制ファシズム、全体主義、超国家主義、国家至上主義、右翼・軍部主導体制、単なる戦時体制などと規定される。どう規定するのが正しいかは上記各項目を参照のこと[1]。少なくとも当時の知識人層には、イタリア、ドイツとの関連で、ファシズムと捉える考えが存在した[2]。
国内武力独裁への批判論文
要約
視点
五・一五事件批判
五・一五事件の批判をした論文には次がある。
- 桐生悠々「五・一五事件に対する当局の謬見」(『信濃毎日新聞』1933年5月10日)
- 「そ(反乱罪)の性質の憎むべく、呪うべくは論を待たないのみならず、その被害の及ぶ範囲も程度も甚大である」。「こうした暴動を名誉的とするものは、名誉の意味を取り違えた変態的心理の持ち主である。言い換えれば、狂人の仕業である」。
- 桐生悠々「五・一五事件の政治的結果」(『信濃毎日新聞』1933年5月19日)
- 桐生悠々「五・一五事件と国民の積極的責任」(『信濃毎日新聞』1933年8月9日)
- 桐生悠々「五・一五事件の大教訓」(『信濃毎日新聞』1933年8月20日)
- 河合栄治郎「五・一五事件の批判」(『文藝春秋』1933年11月11日)
- (1) 軍人が主導したことが問題である。i) 軍人には本来目的があり、それから逸している。ii) 軍人にさまざまな理由から政治主導する資格はない。
- (2) 武力公使したことが問題である。革命主義か議会主義かで、革命主義がよいとする理由はない。「革命主義はただ自己のみが正しいとする自負心のうえに立脚する」。国民多数の同意なしでも改革は形式を整えることはできても、「改革の効用を発揮しえない」。
- (3) 思想内容が問題である(中身は「社会思想の批判」参照)。
二・二六事件批判
二・二六事件の批判をした論文には次がある。
- 矢内原忠雄「落飾記」(『通信』1936年2月29日)
- 桐生悠々「皇軍を私兵化して国民の同情を失った軍部」(『他山の石』1936年3月5日)
- 「だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して一部国民があまりに盲目的雷同的の賛辞を呈すれば、これが模倣を防ぎあたわないと」。「彼等自身が最大罪悪、最も憎むべき国家的行動として、憤怒しつつあった皇軍の私兵化を敢えてして、憚らなくなった」。「軍部よ、今目覚めたる国民の声を聞け」。
- 河合栄治郎「二・二六事件の批判」(『帝国大学新聞』1936年3月9日)
- 石橋湛山「不祥事事件と言論機関の任務」(『東洋経済新報』1936年3月)
- 「ことに遺憾なのは言論機関の態度である。彼等はなんらかことが起こると、必ず痛烈に要路のものを攻撃し、嘲笑し、罵倒する。しかし彼等自身がいかなる具体的建設案を提示したことがあるであろうか」。
- 河合栄治郎「時局に対して志を言う」(『中央公論』1936年6月)
大政翼賛会批判
- 桐生悠々「一国一党は独裁政治の始」(『他山の石』1938年11月5日)
- 桐生悠々「一国一党の利弊」(1940年7月5日)
- 石橋湛山「議会制度の効用」(『東洋経済新報』1940年11月30日)
- 政党なき議会は「いわば雑然たる群衆を一堂に集めた」だけで、「無意味の会合」か、「始末の悪い紛然たる討論場」になってしまう。
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大陸武力進出への批判論文
大陸進出の批判をした論文には次がある[4]。
満州事変批判
- 石橋湛山「内閣の欲せざる事実の拡大――政府の責任頗る重大」(『東洋経済新報』1931年9月26日)
- 石橋湛山「満蒙問題解決の根本方針如何」(『東洋経済新報』1931年9月26日)
- 日中両国が親睦続けることが両国の利益であり、必要である。日本は中国のことを知らない。中国の統一国家建設を認めるべきである。平和な経済関係で十分原料の取得はできる。
- 石橋湛山「満蒙新国家の成立と我国民の対策」(1931年9月27日「社説」)
- 満州国は日本軍部の「息がかか」った「急造の国家」である。「乗りかかった船なれば、今さら捨て去るわけには行かぬ」。それでも、「満蒙から撤退せよ」、「資本を輸出せよ」。
- 矢内原忠雄『満州問題』(岩波書店、1934年)
- 石橋湛山「世界解放主義を掲げて」(『東洋経済新報』1936年9月)
日中戦争批判
理論的批判の論文
要約
視点
社会体制の批判
社会体制の批判をした論文には次がある。
- 長谷川如是閑「冷静に而してファシズムを警戒せよ」(『改造』1928年)
- 長谷川如是閑「ファシズムの社会的条件と日本の特殊事情」(『批判』1931年3月1日)
- 長谷川如是閑「我が国に於けるファシズムの可能と不可能」(『批判』1931年4月1日)
- 長谷川如是閑「ブルジョア国家に於ける「議会主義」及び「独裁主義」」(『改造』1932年3月1日)
- 石橋湛山「国難打開の三項目」(『東洋経済新報』1932年5月21日)
- ファシズム運動の社会的原因としては、i) 言論自由の欠如、ii) 指導者の無能、iii) 経済界の不景気がある。
- 長谷川如是閑「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)
- 石橋湛山「言論を絶対自由ならしむる外思想を善導する方法はない」(『東洋経済新報』1933年1月28日)
- 河合栄治郎「議会主義と独裁主義との対立」(『経済往来』1934年2月)
- 桐生悠々「強権主義、国家主義と間違えられた全体主義」(『他山の石』1938年12月20日)
- 桐生悠々「独裁主義と議会主義との対立」(『他山の石』1940年3月20日)
社会思想の批判
社会思想の批判をした論文には次がある。
- 河合栄治郎「国家社会主義の批判」(『帝国大学新聞』1932年1月1日)
- 河合栄治郎「国家社会主義台頭の由来」(『帝国大学新聞』1932年2月29日)
- 長谷川如是閑「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)
- 「二十世紀の日本主義の内容は依然として、原始的「神国」説の文字通りの伝承である」。「千年来発展のない、すなわち歴史を持たない思想は、これを思想と呼ぶべきものでは」ない。
- 矢内原忠雄「日本精神の懐古的と前進的」(『理想』1933年1月後『民族と平和』に収録される)
- 矢内原忠雄「悲哀の人」(内村鑑三記念講演会での講演が1933年4月『通信』記載される)
- 河合栄治郎「五・一五事件の批判」(『文藝春秋』1933年11月11日)
- 河合栄治郎「マルキシズム、ファッシズム、リベラリズムの鼎立」(『中央公論』1934年2月)
- 河合栄治郎「国家主義の批判」(『改造』1934年10月)
- (1) 国家主義の理論的欠陥=価値原理として欠陥を有する。=i) 国家主義は最高の原理ではない。ii) 国家主義は一般国民が生活に依拠する原理ではない。
- (2) 国家主義の弊害=国家主義は i) 保守主義に陥る。ii) 道徳原理に背反する。iii) 武力崇拝に陥る。iv) 物質主義である。v) 弾圧独裁政治に傾きやすい。
- (3) 国家主義に代わるべきものは理想主義的個人主義である。
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各論者の批判の基盤と姿勢
- 長谷川如是閑の場合
- 桐生悠々の場合
- 石橋湛山の場合
- 基盤紙=公紙『東洋経済新報』
- 公の批判書=なし
- 姿勢=二・二六事件批判、日中戦争批判、三国軍事同盟批判、大東亜共栄圏構想批判(以上、増田弘[10])、特殊権益の否定、間接利益論、国際協調の努力、ブロック経済論批判、東亜新秩序との対決、満州無用論、個人主義(以上、姜克實[11])。ただし、その論調は既成事実を認めたり、批判のトーンが鈍ったりした。それをどう評価するかは分かれるところである。営業紙を守るために譲歩をした、「戦術上(表面上)の退歩」と見る向きがある[12]一方、批判でもなく抵抗でもないと見る向きもある[13]。
- 批判の結果=『東洋経済新報』用の紙の量を落とされるなど、営業上の制約を受けたが、終戦まで発禁にもならず、営業を持続する。
- 河合栄治郎の場合
- 矢内原忠雄の場合
- 清沢洌の場合
- 正木ひろしの場合
- 生方敏郎の場合
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批判と抵抗の類型
国民の大半はその動きに対して従ったのであるが、知識人層を中心に抵抗と批判を現した[18]。そのような抵抗と批判をどのように分類、類型化するか。この問題に何人もの学者・研究者が回答を与えてきた。
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脚注
参考文献
関連項目
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