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フエ条約

阮朝とフランスとの間で締結された一連の条約 (1883-1884) ウィキペディアから

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フエ条約(フエじょうやく、英語: Treaty of Huế)は、1883年から1884年までに阮朝ベトナム)・フランス間で締結された一連の条約である。この条約は、フランスによるベトナムに対する植民地支配の端緒となった。「フエ」はベトナム語の発音に由来する。一方で、フランス語での発音に依拠して、ユエ条約(ユエじょうやく)ともいう。

第一次フエ条約

概要 第一次フエ条約(アルマン条約), 署名 ...

第一次フエ条約(だいいちじフエじょうやく)とは、1883年8月25日阮朝フランス間で締結された条約である。この条約により、ベトナムのトゥーラン(現・ダナン)など3港が開港され、中国系の黒旗軍をフランス軍が駆逐する権利が正当化された[1]。条約締結前の1858年フランススペイン連合軍がダナンを攻撃し、翌年にはサイゴンを支配するなど、フランスのベトナムに対する攻勢がみられた[2]。ベトナムを藩属国とみなしていた清朝や黒旗軍の介入と、阮朝の嗣徳帝の崩御も重なり、ベトナムでは皇帝が乱立し、混乱に陥った[2]1883年、フランス艦隊がフエを攻撃し、最終的に阮朝はフランスに屈服した。屈服した阮朝は、フランス側の代表フランソワ=ジュール・アルマンとの間に仮条約28か条を締結した。この条約を「第一次フエ条約」といい、代表の名からアルマン条約とも呼ばれる[1]

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第二次フエ条約

概要 第二次フエ条約(パトノートル条約), 署名 ...

第二次フエ条約(だいにじフエじょうやく)は、1884年6月阮朝フランス間で締結された条約である。この条約により、第一次フエ条約の確認がなされ、ベトナム北部に対するフランスの主権が確立された。フランスによる保護国化を良しとしない清朝黒旗軍ベトナム北部の官吏は、結託してフランスに対抗したため、フランスは北部を完全に占領し、阮文祥との間で「第二次フエ条約」を締結した。なお、フランス側代表ジュール・パトノートル・デ・ノワイエ英語版の名を由来として、パトノートル条約とも呼ばれる[1]

影響

1884年から1885年にかけて、ベトナムを藩属国とみなす清朝ベトナムの保護国化を目指すフランスとの間で、清仏戦争が発生したが、最終的に清朝はベトナムにおける宗主権を放棄した[2]。一連の出来事は、1887年に成立するフランス領インドシナの形成の過程となった。

出典

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