トップQs
タイムライン
チャット
視点

フランツ・ブルンスヴィック

ウィキペディアから

フランツ・ブルンスヴィック
Remove ads

フランツ・ブルンスヴィック・デ・コロンパ(Franz Brunsvik de Korompa, 1777年9月25日 - 1849年10月23日)は、ハンガリーの伯爵、チェリスト、劇場主。ハンガリー名はブルンスヴィク・フェレンツ(Brunszvik Ferenc)

概要 フランツ・ブルンスヴィックFranz Brunsvik, 生誕 ...

生涯

ブルンスヴィックはポジョニ(現スロヴァキア首都ブラチスラヴァ)でハンガリー貴族の旧家に生まれた。祖父はハンガリー王室の財務官を務めたヨーゼフ・ブルンスヴィック伯爵であり、彼がコロンパ英語版に所有していた地所で、ブルンスヴィック家の子どもたちはたびたび夏を過ごした。父はアナトール・ブルンスヴィック、母アンナ・ブルンスヴィックは結婚するまでヴァンケル・フォン・ジーベルク女男爵であった。姉にテレーゼ、妹にヨゼフィーネがいた。

一家は主にブダの街を見下ろす山に建つ宮殿で暮らした。そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチアルブレヒト・デューラーレンブラントらの作品など[1]、300点を超える貴重な絵画を収めた美術館も備えられていた[2]。屋敷には他にも6000冊の蔵書を有する大規模な図書館や鉱物展示室があった。

ブルンスヴィックは頻繁にウィーンに赴いており、そこでは妹ヨゼフィーネも1799年に結婚して以降、ローテトゥーム通り691番地のデイム邸で暮らしていた[3]。優れたチェロの腕前を持っていたブルンスヴィックは、1799年秋に妹を通じてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと知り合う。間もなく、2人の関係は互いを「君」と呼び合うような親友の間柄へと発展した。彼らの仲が特に深まったのは1806年から1812年にかけてであった。ベートーヴェンはこの時期に2つの重要なピアノ作品、ピアノソナタ第23番(熱情)作品57(1807年)と幻想曲作品77(1810年)をブルンスヴィックに献呈している。1809年マルトンヴァーシャールハンガリー語版に所有する私有地の管理をすることになったが、ベートーヴェンとの書簡のやり取りは1814年まで続けられた。

ブルンスヴィックは1819年ペシュトの劇場の支配人となり、1823年にはピアニストのジドーニエ・ユスト(Sidonie Justh, 1801年 – 1866年)と結婚する。夫妻は作曲家でピアニストのステファン・ヘラーなどと交流した[4]。夫妻は1838年8月25日にペシュトのAdelskasinoで行われた、当時まだ7歳のヨーゼフ・ヨアヒムのデビュー公演を聴きに来ており、その結果彼を後押しすることになった[5]

ブルンスヴィックはウィーンに没した。

Remove ads

出典

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads