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プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス
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プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス(ラテン語: Publius Servilius Geminus、生没年不詳)は紀元前3世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前252年と紀元前248年に執政官(コンスル)を務めた。第一次ポエニ戦争の最中であり、ゲミヌスはシケリアで戦った。詩人エンニウスの友人とも言われている。
出自
パトリキであるセルウィリウス氏族の出身。セルウィウス氏族はアルバ・ロンガから最初にローマに移住した6氏族の一つである[1]。カピトリニスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父はグナエウスである[2]。彼にはクィントゥスという双子の兄弟がおり、これがコグノーメン(第三名、家族名)であるゲミヌス(双子)の由来となり、彼の子孫もこれを引き継いだ[3]。クィントゥスに関しては名前以外は何も知られていない[4]。紀元前253年の執政官グナエウス・セルウィリウス・カエピオはいとこである[5]。
ゲミヌスには二人の息子がいた。一人は紀元前217年の執政官グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス、もう一人は紀元前218年の法務官(プラエトル)ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスである。ガイウスはガリアとの戦争で15年間捕虜となり、同名の息子である紀元前203年の執政官ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスに救出されている[6]。
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経歴
ゲミヌスが資料に登場するのは、紀元前252年と紀元前248年の執政官時代に関するもののみである。何れの場合も、同僚執政官はプレブス(平民)のガイウス・アウレリウス・コッタであり[7][8]、翌年の執政官の一人はルキウス・カエキリウス・メテッルスであった。歴史学者のE. Badianは、彼ら3つのノビレス(新貴族)氏族、アウレリウス氏族、セルウィリウス氏族およびカエキリウス・メテッルス家の間に強い同盟関係があったと結論づけている。この同盟関係は、紀元前2世紀末まで続いた[9]。コッタとゲミニスは共同してシケリアでカルタゴと戦った。この間に記録に頻繁に登場するのはコッタであり、ゲミヌスはその影に隠れている[7]。
紀元前252年、両執政官は、シケリア北岸のヒメラを含むカルタゴの拠点を占領している[10]。ローマに戻ったコッタは「シケリアのカルタゴ軍」に対する勝利を讃え、凱旋式を実施する栄誉を得た[11]。紀元前248年、両執政官は再度シケリアに派遣されたが、明確な勝利を得ることはできなかった。ローマ、カルタゴ両軍共に長期にわたる戦争に疲弊しており、積極的な作戦は行わなかった。カルタゴ軍はリルバイウム(現在のマルサーラ)とドレパナ(現在のトラーパニ)に立て篭もっており、両執政官はどちらの都市も攻略することができなかった[12]。
2世紀の歴史家アウルス・ゲッリウスは、その著作『アッティカ夜話』の中で、エンニウスの『年代記』7巻にある話として、
と述べ、著名で高い地位にある人物が持つべき資質を列記している[13]。ゲッリウスはこのセルウィリウス・ゲミヌスとはプブリウスのことと考えていたようであるが、現代の研究者は息子のことと考えている[14]。
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脚注
参考資料
関連項目
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