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プブリウス・センプロニウス・ソプス (紀元前268年の執政官)
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プブリウス・センプロニウス・ソプス(ラテン語: Publius Sempronius Sophus)は共和政ローマのプレプス(平民)出身の政務官。紀元前268年に執政官(コンスル)、紀元前252年に監察官(ケンソル)を務めた。
出自
ソプスが属するセンプロニウス氏族はプレプスではあるが、同名の父であるプブリウス・センプロニウス・ソプスが紀元前304年に氏族として最初の執政官に就任している[1]。カピトリヌスのファスティによれば、祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)もプブリウスであった[2]。
経歴
ソプスに関する記録が最初に現れるには、紀元前268年に執政官に就任したときである。同僚執政官はパトリキ(貴族)出身のアッピウス・クラウディウス・ルッススであったが、任期満了前に死亡している[3]。
両執政官に課せられた主な任務は、前年に発生したピケヌム(en)の反乱の鎮圧であった。いくつかの資料では、両執政官は合同してピケヌムに勝利し、合同凱旋式を実施したとされる[4]。他方、軍を率いたのはソプスのみであったとする資料もある[5][6]。ドイツの学者フリードリッヒ・ミュンツァー(en、1868年 – 1942年)は、エウトロピウス(320年頃 ‐ 4世紀末)の説が最も信頼性が高いとしているが、この勝利の最大の貢献者はソプスであるとも述べている[7]。決戦の前には地震が起こり、戦いも凄惨なものとなり、生き残ったローマ兵は僅かであった[8]。フローラス(en、74年 – 130年頃)によれば、ソプスは地震を鎮め、大地の女神テルースのために神殿を建立することを誓った[6]。セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスも同じ話を述べているが、ローマ軍の司令官を間違ってティベリウス・センプロニウス・グラックスであったとしている[9][10]。
同年(紀元前268年)にアリミヌム(現在のリミニ)とベネウェントゥム(現在のベネヴェント)に植民都市が建設され、サビニ人に対して選挙権が与えられた[9][11]。
紀元前252年に監察官に就任。同僚監察官はマニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラであった[12]。両監察官は、16人の議員を元老院から追放し、カルタゴとの戦争中であるにもかかわらず訓練を行ったとして、シケリア(シチリア)に駐屯していた400人のエクィテス(騎士階級)を降格した[9][13]。任期中に実施した国勢調査によると、ローマの人口(徴兵対象人口)は297,797であった[14]。
私生活においても、ソプスは監察官としてと同じように厳しかった[9]。妻が告別競技会(故人を讃えて実施される競技会)を観戦した(あるいはソプスに知らせることなく観戦した[15])という理由で離婚している[16]。おそらく、これは紀元前264年にマルクス・ユニウス・ブルトゥスとデキムス・ユニウス・ペラの兄弟が父の葬儀に際してフォルム・ボアリウムで開催した最初の剣闘士試合の際の話と思われる[9]。
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脚注
参考資料
関連項目
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