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プブリウス・デキウス・ムス (紀元前279年の執政官)

共和政ローマの政治家、将軍 ウィキペディアから

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プブリウス・デキウス・ムスラテン語: Publius Decius Mus紀元前3世紀、生没年不明)は共和政ローマプレブス出身の政治家将軍祖父、父共に自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた伝説を持つ。

概要 プブリウス・デキウス・ムス P. Decius P. f. P. n. Mus, 出生 ...

経歴

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一族の伝説を描いたルーベンス画、『デキウス・ムスの聖別』(1616-1617年)

最初のコンスルシップ

デキウスは同名の父親の子であり、紀元前279年に執政官となった。同年のアスクルムの戦いエピロス王ピュロスと戦い、敗れはしたものの、キケロが「敵の武器に身を投げ出」したと述べたように奮戦し、後に「ピュロスの勝利」と言われるほどに敵に多くの損害を強いた[1][2]

二度目のコンスルシップ

紀元前265年ウォルシニでは解放奴隷が当地の元老院の実権を握り、元の主人を過酷に扱っていたためローマへ救援を求めた。派遣された彼は解放奴隷の多くを殺し、残りは再び奴隷として元の主人に戻したという[3]ヨハネス・ゾナラスなどの記録によると、最初当年の執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスが送り込まれたものの、負傷し死亡してしまったため、デキウスが補充執政官として選出され代わりに送り込まれた。

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参考文献および参考URL

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