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ベティ・カンプソン

アメリカの女優 (1897-1974) ウィキペディアから

ベティ・カンプソン
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ベティ・カンプソンBetty Compson1897年3月19日 - 1974年4月18日)は、アメリカ合衆国女優、映画プロデューサー。デビューはサイレント映画期。代表作は『紐育の波止場』(1928年)とアカデミー主演女優賞にノミネートされた『煩悩英語版』(1928年)。

概要 ベティ・カンプソン Betty Compson, 本名 ...
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生涯

要約
視点

1897年3月19日[1]ユタ州ビーバー英語版の鉱山キャンプで、鉱山技師・金採掘者・食料雑貨店経営者の父ヴァージル・カンプソンと家事手伝い・ホテルメイドのメアリー・ラウシャーの子として生まれる[2]。出生名はEleanor Luicime Compson。ソルトレイク高校を卒業[3]。若くして父親をなくし、16歳でソルトレイクシティの劇場でバイオリニストとして働き出す[4]

巡業でヴォードビルの寸劇を演じていたところ、ハリウッドの喜劇プロデューサーのアル・クリスティ英語版の目に留まり契約[5][6]。1915年11月公開の『Wanted: A Leading Lady』で映画デビューする[7]

1916年には25本の映画に出演。『Almost a Widow』を除いて、すべてアル・クリスティの短編映画だった[8]。クリスティとの契約が終了する1918年半ばまでこのペースで多数の短編映画に出演。1919年、パラマウント映画と5年契約を結び、ジョージ・ローン・タッカー英語版監督作品『ミラクルマン英語版』で長編映画デビュー。

人気を得たことで、プロデュース業にも進出。『愛の虜英語版』を製作・主演した。

四つの顔の女英語版』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、グラハム・カッツ英語版監督の『Woman to Woman』(1923年)、『ホワイト・シャドウ英語版』(1924年)に出演する(この2本にはアルフレッド・ヒッチコックが脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、ジェシー・L・ラスキーは最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。

ハリウッド復帰作の『性の敵英語版』(1924年)の監督 ジェームズ・クルーズ英語版と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)[9]。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算のコロンビア ピクチャーズ春の花巴里情調英語版』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『肉体と悪魔』(1926年)でグレタ・ガルボの代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。

1928年にはファースト・ナショナル・ピクチャーズのパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた[10]。同年、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『紐育の波止場』にも出演。

これらの作品でカンプソンの人気は復活、トーキー時代を迎えて、多忙な女優となった。『ミラクルマン』『The Big City』(1928年)でカンプソンと共演したロン・チェイニーは自身初となるトーキー映画『三人英語版』(1930年)の相手役を依頼したが、忙しすぎて出ることが出来ず友人のライラ・リー英語版を紹介したほどである。

1930年だけで9本の映画に主演。しかし、ゲイリー・クーパー主演『スポイラース英語版』のヒットを最後に、出演はポヴァティ・ロウの映画ばかりになる。

それでも『風と共に去りぬ』のベル・ワトリング役のスクリーン・テストを受けるが、役は得られず、ヒッチコック監督の『スミス夫妻』(1941年)で小さな役をもらうのがやっとであった。

1948年の『Here Comes Trouble』を最後に女優を引退。その後は化粧品会社の経営や、3番めの夫の事業を手伝った。

1974年4月18日、カリフォルニア州グレンデールの自宅で心臓発作のために死亡。77歳だった。サン・フェルナンド・ミッション・セメタリーに埋葬[11]。結婚は3回したが、子供はいなかった。

映画産業への多大な貢献により、ヴァイン通り1751にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星と名前を刻まれた[12]

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主な出演作品

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出典

外部リンク

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