トップQs
タイムライン
チャット
視点
ペン・カーゾン
グレートブリテン王国の政治家 (1757 - 1797) ウィキペディアから
Remove ads
ペン・アシュトン・カーゾン閣下(英語: Hon. Penn Assheton Curzon、1757年1月31日洗礼 – 1797年9月3日)は、グレートブリテン王国の政治家。小ピット派の一員であり、1784年から1797年まで庶民院議員を務めた[1]。
生涯
アシュトン・カーゾン(1794年に初代カーゾン男爵に、1802年に初代カーゾン子爵に叙爵)と1人目の妻エスター(Esther、旧姓ハンマー(Hanmer、1764年7月21日没、ウィリアム・ハンマーの娘)の息子として生まれ[2]、1757年1月31日に洗礼を受けた[3]。1768年よりウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[3]、1774年5月17日にオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジに入学した[4]。
1784年イギリス総選挙で小ピット派の候補としてレンスター選挙区から出馬、308票を得て得票数2位で当選した[5]。議会では1788年から1789年にかけて摂政法案(Regency Bill)で与党に同調して投票したが、演説の記録はなかった[3]。1790年イギリス総選挙では父がリスター家(Lister)と和解してクリセロー選挙区での影響力を取り戻したため、クリセローに鞍替えして無投票で再選した[6]。レスターシャー選挙区からの出馬も狙っていて、1790年にレスターシャー民兵隊(後のレスターシャー・ヨーマンリー)の副隊長(軍階は中佐)に就任したが[1]、同年の総選挙では第7代準男爵サー・トマス・ケイヴが選ばれ、カーゾンは出馬しなかった[7]。1792年にケイヴが死去すると、トマス・バビントンとカーゾンは補欠選挙での出馬に名を上げたが、バビントンが不人気だったためカーゾンがほぼ全会一致で支持され、無投票で当選した[7]。同年に息子が生まれ、カーゾンは有権者への謝意として息子の名前を「レスター」(Leicester)とした[1]。一方、クリセロー選挙区の議席については父が自ら出馬することで維持した[6]。1791年にスコットランドにおける審査法廃止に反対したが、それ以外では1790年以降の議会活動がまばらだった[1]。
1797年9月3日、父に先立って死去した[2]。1820年に父が死去すると息子リチャード・ウィリアム・ペンがカーゾン子爵位を継承した[2]。
Remove ads
家族
1787年7月31日、ソフィア・ハウ(1762年2月19日 – 1835年12月3日、初代ハウ伯爵リチャード・ハウの娘、1799年に第2代ハウ女男爵)と結婚、3男1女をもうけた[3]。
- ジョージ・オーガスタス・ウィリアム(1788年5月14日 – 1805年1月6日)[8]
- マリアン(Marianne、1790年8月30日 – 1820年2月18日)[9]
- レスター(Leicester、1792年11月8日 – 1793年2月26日[9]) - 早世[1]
- リチャード・ウィリアム・ペン(1796年12月11日 – 1870年5月12日) - 第2代カーゾン子爵、初代ハウ伯爵、第3代ハウ男爵
出典
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads