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ボリシェヴィキによる宗教的迫害
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ボリシェヴィキによる宗教的迫害(ボリシェヴィキによるしゅうきょうてきはくがい)とは、ロシア革命においてウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ党政権が行なった諸宗教への宗教的迫害のことである。
概説
→「en:Opposition to Russian Orthodox Church during the Russian Civil War」、「en:USSR anti-religious campaign (1921–1928)」、および「en:USSR anti-religious campaign (1928–1941)」を参照
→「ロシア正教会の歴史 § ソ連:無神論政権による弾圧の時代」、および「ソビエト連邦 § 宗教」も参照
カール・マルクスは宗教を「民衆の阿片」として批判し、唯物論にもとづく無神論を提唱した。マルクス主義(共産主義)政党であったボリシェヴィキは 1917年10月(新暦11月)に権力を掌握すると宗教は反革命勢力であるとして弾圧を開始した。1918年1月に政教分離原則に関する布告を出して以降、ロシア正教徒、ユダヤ教、仏教、イスラム教などへの制限を加えていった。
ロシア人口の大半をしめるロシア正教において被害は甚大で、大量の聖職者・信徒が虐殺された。レーニン没後もヨシフ・スターリンによって弾圧は継承され、弾圧はさらに熾烈になった。
政教分離原則によって人々から信教の自由を奪う試みとしても世界初のことであり、以降、ボリシェヴィキに強い影響を受けた中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国などでも宗教が弾圧されている。
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「政教分離」布告と正教会弾圧
要約
視点
1918年1月23日、教会と国家の分離、および学校と教会の分離に関する布告が布告され、学校における宗教教育の禁止、教会の所有権および法的人格の剥奪、教会資産の国有化が命じられた[1][2]。これにより、教会設立の学校は廃校または公立学校へ移管され、学校での宗教教育だけでなく、学外の宗教教育も個人を除いて禁止され、教会は、婚姻、出生登録などの権限も剥奪された[3]。「政教分離」布告が発布されると、たちまち聖職者と修道女に暴力が行使され、逮捕されたり公然と辱めをうけ、教会は略奪され、閉鎖された[1]。1920年までに670の修道院が閉鎖された[4]。
聖職者は、資本家階級や犯罪者とともに最下等身分とされ、公民権も剥奪されたうえに食料配給券も支給されず、また、就労資格を得るのに必要な労働組合への加入も許されなかったために、働くことさえも許されなかった[4]。さらに高率の税金と高額の家賃を課せられ、聖職者の子供は、中等以上の教育を受ける権利も剥奪された[4]。
レーニンにとって聖職者は「反革命分子」であり、レーニンは総主教ティホーンとの交渉をいっさい拒絶した[1]。ロシア全土の総人口の70%、ロシア人のほぼ100%を占めていたロシア正教徒をボリシェヴィキは最大の敵対勢力の一つとみなし[5]、飢饉を背景に、宗教への戦争がはじまった[1]。
1918-20年までに28人の主教が処刑され、数千人の聖職者が殺害または投獄され、1万2000人の信徒が処刑され、数千人が強制収容所に送られた[6]。
オムスク大主教シリヴェストルの記録では、ボリシェヴィキは、聖職者たちの手足を切り刻んで殺し、生きながら焼ことも行った[6]。また、ボリシェヴィキは、ペトログラード、トゥーラ、ハリコフなどで、市民のデモ隊に銃撃した[7]。尼僧は暴行され、女性は共有財産として性的搾取を受けた[7]。
シベリアのトボリスク主教ゲルモゲンは、当時トボリスクにいた廃帝ニコライ2世一家の家の前で祝福したために逮捕され、ソビエト政府は10万ルーブル保釈金を要求した[8]。1918年6月16日、赤軍は、反革命軍が接近しているので疎開するという口実でゲルモゲン、募金活動によって保釈金を用意した信徒たち、政治囚を、川船に乗せたあと、彼らの首の周りに石を詰め込み、デッキから突き落として溺死させた[8]。
オリョル主教マカーリーは、1918年夏、地方革命委員会に逮捕され、監獄で繰り返し拷問を受けた後、郊外の野原で他の14人とともに処刑された[9]。処刑した兵士の一人は、マカーリーが射殺直前に「わが父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから。」と祈るのを見て、主教の「聖性」を確信した[9]。
キエフおよびガリツィヤの府主教ウラジーミルは1918年1月25日、酔っ払った赤軍兵士に殴られ、引き摺り出され、射殺された[10]。ウラジーミルの遺体は切り刻まれ、血の海のなかに放置された[11]。
1918年2月、ドン川流域の町から一人の赤軍兵士は、家族への手紙で、聖職者という「悪魔を追い回し、犬のように殺害しました」と誇らしげに書き送った[11]。司祭ディミトリーは、裸にされて処刑直前、十字を切ろうとしたら、兵士に右腕を切断され、救世主ハリストス大聖堂の修道院長は頭皮を剥がされたあと、頭部を切り刻まれた[11]。
1918年2月から5月までで687人が教会の財産没収や政府への抵抗で命を落とした[12]。1918年6月から1919年1月までに、府主教1人、主教18人、司祭102人、輔祭154人、修道士と修道女94人が処刑され、主教4人、司祭211人が投獄されたが、これは一部地域の数字である[13]。
いくらかの抵抗もあった。ウクライナのルガンスク近郊のアヴデーエフカ村の住民は司祭と教会を献金で維持。グリシノ村ではソビエトの命令を無視して司祭を守り抜いた[13]。ドネツクでは炭鉱労働者と工場労働者が、ボリシェヴィキに対して、司祭に冒涜的な行為を加えれば、反抗することを辞さないと発表し、司祭を守った[14]。
1918年1月、社会福祉人民委員コロンタイは、アレクサンドル・ネフスキー大修道院を接収するために兵士を派遣し、司祭を殺害したが、教会を守ろうとした群衆を追い払うことはできなかった[14]。さらにペトログラード府主教ヴェニアミンがデモ行進すると、デモ参加者は数十万人に膨れ上がり、ネフスキー大通りを進んだ。これを契機に、各地で信徒同盟が結成され、ペトログラード、モスクワでも6万人の信徒が参加した[14]。1918年2月-5月までに当局との衝突で687人の犠牲者が出た[15]。以降、ボリシェヴィキの宗教弾圧はますます激しくなった[16]。
チーホン総主教は1918年の革命一周年記念を準備しているボリシェヴィキに対して弾劾メッセージを送った[17]。チーホン総主教は、ボリシェヴィキによって、毎日数百人もの無力な市民が逮捕され、裁判なしに処刑され、聖職者たちが反革命という大雑把で曖昧な罪名で無慈悲に射殺されている、「あなたがたは自由を約束した。だが、人が自分のために食料を確保することも、住居を変え、他の町へ旅することも許されないのに、それが自由なのか。」「反革命の罪を着せられることを恐れて、公然と自分の意見を述べる者がいないのに、それが自由であるというのか。」とのべ、迫害の中止を求めた[17]。またチーホン総主教は赤色テロルを聖書の「剣を取るものは剣によって滅ぶ」を引いて批判した[12]。これに対してボリシェヴィキはチーホン総主教と補佐役を逮捕し、軟禁した[18]。
グラスノスチを推進し、ロシア連邦大統領付属政治抑圧者名誉回復委員会議長を務めたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフが引用した公文書によれば、1918年だけでも3,000人の聖職者が処刑された[19]。しかも、聖職者たちは残虐な仕方で殺害された。司祭、修道士、修道女たちは磔刑に処され、煮えたぎるタールの釜に投げ込まれ、頭皮を剥がされ、絞殺され、溶けた鉛で聖体拝領を施され、氷に掘られた穴に溺死させられ、殺害された[19]。
1919年、ボリシェヴィキは、聖者の墓をあばき、遺骸をさらすことを命じた[20]。政府は、遺骸が骸骨にすぎないと示すことで教会の信仰心を攻撃しようとしたが、ある信者は、「不信心者による墓暴きに対し神は遺骸をぼろと藁に代えた。これは奇跡だ」と語った[20]。
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1921年ロシア飢饉と教会財産押収
1921年夏のロシア大飢饉は、旱魃だけが原因でなく、徴発などのテロリズムが農村を破壊、農民を植えさせた[21]。ヴォルガ川中下流域、カフカス北部、ウクライナで飢饉は顕著で、3000万[22]から4000万人がうえ、ロシアの耕作地60%が被害を受け、死者500万、孤児数百万にのぼり[23]、人肉食さえ発生した[21]。トロツキーは、飢饉は教会を壊滅させる口実になるとレーニンに進言した[22]。
1921年7月30日、レーニンは、徴発部隊を立て直し、多くの活動家の動員を指示した[24][25]。カレール・ダンコースは、これこそ、レーニンがいかなる場合にも暴力による解決に訴えようとする性向を持つことを、むごたらしく証明するものだと指摘する[25]。
数百万人が死んだロシア飢饉 (1921年-1922年)に対してチーホン総主教は1921年8月、飢餓救済委員会を設立し、世界の宗教の指導者にアピールした[26]。ボリシェヴィキはこれをただちに解散させ、教会財産の没収を通告した[27]。また総主教が飢えたものへの救援するために全国聖職者評議会を創設すると、これもただちに禁止した[1]。レーニンは教会財産の略奪の理由について、経済再建、ジェノバ会議のためなどと列挙したが、飢饉対策とは一言もいわなかった[28]。
1922年2月19日、チーホン総主教は飢饉の犠牲者のために、礼拝用を除いて貴重品をすべて供出すると申し出、2月23日、レーニンによって布告として出された[1]。しかし、政府はすべての教会財産の没収を開始した[27]。これに抵抗した信者と聖職者への虐殺と抑圧がはじまった[1]。押収に抵抗した信徒ら群衆による騒動は何百件と記録されたが、これらは帝政ロシアの亡命者からの指示で動く反革命勢力の組織的運動だと決めつけられた[22]。
聖職者への粛清と見せ物裁判
要約
視点
1922年3月11日、レーニンはトロツキーに教会の「清掃」つまり「略奪」がどれだけ進行しているか報告することを命じた[29]。3月19日のモロトフ宛文書でレーニンは「無数の暗黒の聖職者」がソビエト権力に対して戦いを計画しているとし、「飢えた地域で人々が人肉で飢えをしのぎ、数百数千の死体が路上で腐敗していく今この時においてのみ、われわれはもっとも粗暴にしてもっとも情け容赦ない活動によって、教会の宝物の没収を実現できる、そしてそうしなければいけない。何が起ころうとも、われわれはできるだけ速やかに決定的な形で教会の財を没収しなければならない。」「処刑数が多ければ多いほど、うまく行くだろう」と、「できるだけ多くの反動的聖職者と反動ブルジョワジーの処刑」を命じた[30]。この文書は1960年代末まで極秘だったが、保管所から流出して、1970年にフランスで公にされ、1990年にソ連が公式に認めた[31]。ながいあいだこの文書は偽造文書として扱うよう画策されてきた[31]。
また、レーニンは1922年2月の手紙でモスクワ、ペトログラード、ハリコフ他の重要な地で、迅速かつ強力な弾圧を実行するための見せ物裁判(показательный процесс、model trials、模範裁判)を推奨した[32]。その二ヶ月後、1922年4月から5月にかけて、聖器物徴発に抗議した聖職者への「54人裁判」が、みせしめで行われ、11人に死刑宣告、5人が処刑された[33]。1923年3月にも、ボリシェヴィキ政府は16人のカトリック聖職者の見せ物裁判を行い、死刑が宣告された[34]。外国からの圧力で執行猶予となったが、一人の司祭が銃殺された[34]。レーニンがはじめた見せ物裁判は、スターリンによって大規模に発展し、モスクワ裁判で同志たち(共産党員)が裁かれ、処刑されていった。
54人裁判で、反総主教の聖職者集団の存在が判明し、彼らがボリシェヴィキに協力していたことがわかった。彼らは正教会を批判し、「生ける教会ー革新教会」を結成し、教会指導権を掌握しようとした[33]。「生ける教会」は、1922年3月に国家政治保安部(GPU)が正教会内部から攻撃するために改革派を動かして設立した[35]。革新教会派は、ソビエトに対する完全な忠誠を表明、マルクス主義を受け入れ、財産没収を支持し、ボリシェヴィキからの資金援助を受けた[36]。
1922年5月、共産党政権を支持する司祭たちがチーホンに教会の全ての業務を辞するよう要求すると、チーホンはこれに屈した[37]。以後、宗務院のような、高等宗務部が設立され、総主教座の廃止をよびかけ、1922年8月までに143の主教のうち37人の司祭が「生ける教会」に合流した[37]。チーホンは高等宗務部の関係者を破門したが、意に介されることもなく、地下に潜行せざるをえなかった[37]。
ペトログラード府主教ヴェニアミン・カザンスキーは1922年6月10日に逮捕され、ヴェニアミンを含む10人が死刑宣告をうけた[38]。
1922年半ばまでに教会財産押収をめぐって1414件におよぶ流血の衝突が各地で発生した[27]。シューヤ事件では、群衆が騎馬警官に罵声を浴びせたり、石や薪を投げるなど抗議すると、数十人の兵士が機関銃で一斉射撃し、4人が死亡、10人が重傷した[27]。
1922年には約8000人の聖職者が粛清されており、この年だけで司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人が殺害され[39]、司教の多くは逮捕され収容所へ送られ、さらにこれに多数の信者が殺害された[40]。ヨーロッパの宗教界から抗議をうけたため、総主教だけは自宅軟禁となった[40]。レーニンは総主教に「私はソビエト権力に敵対した…これらの過ちを遺憾に思う」と「自分の罪」を認め署名させることを条件とした[40]。これが、のちにスターリンが強要していった「自己批判」がソビエト政治に登場した初の例で、粛清の対象となった者に自説を捨てさせ、粛清の正当性を強要するやりかたを考案したのはレーニンだった[40]。
1922年5月4日には司祭の死刑を新たに制定する布告を出した[29]。
ボリシェヴィキは青年団コムソモールを用いて、1922年末に反クリスマス活動を行なった[35]。コムソモールは、司祭やラビの格好をして、モスクワの街路で「ラビはいらない!司祭はいらない!ブルジョワを打ちのめせ!クラークを締め殺せ!」とデモ行進した[35]。白ロシアのゴーメリでは、キリスト教やユダヤ教の神に対する裁判を描いた演劇がクリスマスに上演され、劇中で神々は裁判官から死刑を宣告され、広場で焼かれた[35]。サンタクロースは「子供の心を奴隷にする」と告発された[35]。劇場では、ケレンスキー政府やブルジョワ生活への風刺を描いた演劇が上演された。しかし、こうしたキャンペーンはむしろ宗教的信仰心を強めたと1923年の共産党の決議で確認され、以降は縮小された[35]。無神論協会は、宗教を嘲笑し、攻撃した。ユダヤ教に対してはナチスのような反ユダヤ主義で攻撃した[35]。
1921年から23年までに正教会の8100人の聖職者、2691人の妻帯司祭、1962人の修道士、3447人の尼僧、そしておびたただしい数の信徒が殺害された[36]。1923年4月、ティーホン総主教は今後ソビエト政府に敵対しないと裁判で誓言し、釈放された[41]。他方、革新教会は支持者をほとんど獲得できなかった[41]。
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ユダヤ教迫害
多くのキリスト教徒は、迫害をボリシェヴィキを主導するユダヤ人の仕業であるとみなしていたが、ユダヤ教も迫害された[37]。ユダヤ教迫害は、1921年に共産党に合同したブント(リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)が担当した[42]。ブント党員は、宗教とシオニズムを嫌っており、シナゴーグをクラブや倉庫に転用した[42]。
反宗教劇「ケーデル」では、四つん這いにさせた俳優の尻にユダヤ教の清浄な食物を意味する「コシェル」と書いて嘲笑した[42]。
レーニン崇拝と無神論国家

→詳細は「レーニン廟」を参照
レーニンは宗教との戦争に勝利し、ソビエトは無神論を国家イデオロギーとした[28]。無神論雑誌「スタンカのベズボジニク」では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教との戦いが宣伝された。
1923年4月、共産党が指揮した第二回教会会議では、共産主義者による教会の迫害を否定し、「社会正義の護衛官」であるレーニンによる十月革命は「キリストの功業」であり、ソビエト政府は世界で唯一の「神の王国」の理想を体現しようとしていると宣言し、それとともに総主教座の廃止が宣言された[37]。これにチーホンは再び屈し、1923年6月に自らの「反ソビエト的な」過去をあらため、「生ける教会」への破門を撤回した[37]。
レーニンは1924年に死去したが、遺体は防腐処理され、レーニン廟に展示された。レーニンは現世の聖人であると宣言され、レーニン崇拝は人民の義務となった[43]。ティーホン総主教は翌1925年に死去した。
のちにスターリンが権力を掌握すると、同様にスターリン崇拝が発展した。スターリン没後の1956年、ソビエト連邦共産党書記長ニキータ・フルシチョフが「個人崇拝とその諸結果について」を秘密演説し、スターリンへの個人崇拝、そして大粛清をはじめとする弾圧政策を批判した。これは「スターリン批判」として世界中の共産主義運動に衝撃を与えた。
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スターリンによる継承


弾圧があっても、信徒が1925年には9%増加したため、党イデオローグのエメリヤン・ヤロスラフスキーが「戦闘的無神論者同盟」を結成し、活動した[36]。
ティーホン総主教没後、主教たちは新総主教を選出しようとして、信徒のクフシノフ親子、修道士タヴリオンを各主教へ派遣。しかし、クフシノフ親子は逮捕後、処刑され、修道士タヴリオンは以後27年間、監獄、強制収容所、流刑血ですごした。ソビエトは投票権をもつ主教の名簿を入手し、1927年までに117人の主教を逮捕した[45]。
スターリンはレーニンの宗教弾圧を継承した。1932年にはほとんどすべての修道院が破壊された[46]。レニングラードでは2月18日、318人の修道士が強制収容所に送られ、22の聖堂が閉鎖され、モスクワでは400以上の聖堂と修道院が爆破された[46]。スターリンは利用価値のなくなった革新教会も含めて弾圧した。
1930年に正教会はまだ3万の教会、163人の主教、6万人の司祭、数千万の信徒がいたが、1931年には2万に激減した[47]。1930年のモスクワの教会数は1917年から半減し、1933年には教会は革命前の15-25%にまで減少した[47]。1939年には活動している教会は100ほどに減少した[48]。
1936年には主教20人が逮捕され、1937年には主教50人が逮捕された[48]。1930年にいた163人の主教のうち、86人が1937年には収容所へ送られ、29人の主教が死亡し、27人が「引退」させられた[48]。1930-40年代に600人の主教が殉教し、教区司祭も犠牲になった[48]。1935年に100人いた教区司祭は1940年までに7人に減った[48]。革新教会も1935年に50人いたが1941年には8人に減った[48]。1930年代だけで3万人から4万人の聖職者が処刑されるか、収監された[48]
1941年6月に独ソ戦が開始すると、総主教代理セルギー府主教は、祖国防衛をスターリンにも先んじて訴えた。スターリンはこれを高く評価し、1943年に宗教弾圧を撤回した[49]。1945年には神学校設立も許可され、1950年には3万人の司祭が活動を許され、教会も再開されたり、新設された。とはいえ、聖職者の逮捕、強制的引退は続いた[50]。
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脚注
参考文献
関連項目
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