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ボロジノ (戦艦)
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ボロジノ(ロシア語:Бородино́)はロシア海軍が日露戦争前に建造した前弩級戦艦のボロジノ級戦艦の1番艦である。日本海海戦ではバルチック艦隊に配備され第1戦艦隊に配属されたことで知られる。
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艦歴
1899年5月14日/5月26日[1]建造開始[2]。1900年5月11日/5月23日起工[2]。1901年8月26日/9月8日進水[2]。
竣工後、バルチック艦隊(第2太平洋艦隊)に配置され、アフリカ大陸やマラッカ海峡などを経由してウラジオストクまで回航を目指すことになる。
日本海海戦では第一戦隊三番艦として同型のクニャージ・スヴォーロフ、インペラートル・アレクサンドル3世に続いて行動し艦長のセルプリャニコフ大佐の指揮の下戦うがクニャージ・スヴォーロフ、インペラートル・アレクサンドル3世が相次いで落伍、17時半頃には先頭に立ち嚮導艦として艦隊を先導する。
この時点では殆ど損害は受けていなかったが18時以降の砲戦で集中砲火を浴びた同艦は大損害を蒙りながらもひるむことなく前進し、日本側にいたイギリス観戦武官ウィリアム・ペケナム曰く
「この艦の堅忍不抜と勇気は例の無いものである」
と評する奮戦を見せる。
しかし7時20分ごろに突然2回の大爆発を起こし転覆沈没した[3]。公式記録では戦艦富士の主砲弾が命中したことによるものとされているが、火災がいずれかの火薬庫に引火したものとも言われている。
865名が戦死[4]。生存者は艦首ケースメイト75ミリ砲の砲手ユシチェンコただ1人であった。証言によれば持ち場が被弾したので救援を求めに持ち場を離れたが、被弾で行く道が絶たれていたので戻ろうとした所転覆したので脱出したという。他にも5人が漂流していたようだが次々と力尽きて沈んでいき、1人残されたユシチェンコがたまたま近くを通った日本側の駆逐艦朧に救助された。「戦袍余薫懐旧録」にある朧の乗組員であった内藤省一(海戦当時・中尉)の記述によれば[5]、艦腹にある艦名を見て朧(おぼろ)の名を叫んでいる日本兵がいたために救助したが、それは朧をロシア艦艇と勘違いして乗艦の名前(ボロジノ)を叫んで救助を求めたユシチェンコであったという。
1905年9月2日/9月15日除籍[4]。
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脚注
参考文献
参考図書
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