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ポツダム

ドイツの都市 ウィキペディアから

ポツダム
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ポツダムPotsdam)は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の郡独立市で、州都である。人口は約19万人。

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サンスーシ宮殿
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オランジェリー宮殿

東ドイツ時代には、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

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地勢・交通

ドイツの首都ベルリンの西南に接し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンとはSバーンでも結ばれている。ハーフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

歴史

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ポツダム王宮(現ブランデンブルク州議事堂)

ゲルマン民族民族移動時代後、スラヴ人7世紀頃にHevelli部族の移住として入って来た。神聖ローマ帝国皇帝オットー3世が土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、993年の文献にPoztupimiとして初めて記述されている[2]1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2,000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどブランデンブルク=プロイセンの拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を発した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシ宮殿である。他には、新宮殿英語版オランジェリー宮殿英語版がある。

20世紀

戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の衛戍教会で開会され、この日はナチス・ドイツ時代の始まりを象徴する日として「ポツダムの日」と呼ばれた。

第二次世界大戦中は、しばしば連合国軍による空爆に晒された。1939年4月10日にはイギリスが首都ベルリンとともにポツダムを爆撃[3]。さらに1945年4月14日から15日には大規模な空襲により壊滅的な被害に見舞われた(ポツダム空襲)。第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、ツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まりポツダム会談が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定するポツダム協定が成立し、また会議日程中には日本に対する降伏勧告・ポツダム宣言が発表された。

その後、日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしば「ポツダム」が使用される(ポツダム命令ポツダム進級)。

1991年ポツダム大学が創設された。

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政治

姉妹都市

姉妹都市は下記の都市である[4]

観光

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ハーフェル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国フリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシ宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

引用

関連項目

外部リンク

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