トップQs
タイムライン
チャット
視点

マックス・エルトマンスデルファー

ウィキペディアから

マックス・エルトマンスデルファー
Remove ads

マックス・エルトマンスデルファー(Max Erdmannsdörfer, 1848年6月14日 - 1905年2月14日)は、ドイツ指揮者ピアニスト作曲家。時おりマックス・フォン・エルトマンスデルファー(Max von Erdmannsdörfer)とされる。

概要 マックス・エルトマンスデルファーMax Erdmannsdörfer, 基本情報 ...

生涯

エルトマンスデルファーはニュルンベルクに生まれた。ライプツィヒ音楽院で学んだ後、ゾンダースハウゼン英語版[注 1]カペルマイスターとなった。1874年、彼はリストの弟子であったパウリーネ・フィヒトナー(Pauline Fichtner)と結婚した。彼女はその後公式にパウリーネ・エルトマンスデルファー・フィヒトナーという名前を名乗るようになる。エルトマンスデルファーはリストと書簡をやり取りする仲となり[1]1876年7月2日にはリストの交響詩ハムレット』(S.104)をゾンダースハウゼンで初演した[2]。また、彼は散逸していたリストの『ピアノ協奏曲第3番』の少なくとも一部の楽譜を所有しており、その草稿は1989年になって広くヴァイマル、ニュルンベルク、レニングラードに散らばっていた断片を合わせてひとつにまとめられた[3]

エルトマンスデルファーはヨアヒム・ラフとも親しい間柄であった。エルトマンスデルファーと妻は2人でラフから『ピアノ五重奏曲 作品107』の2台ピアノ編曲版の献呈を受け、1877年9月22日にゾンダースハウゼンでこれを初演している。パウリーネは1870年にも、ラフの『ピアノ組曲 ト短調』の献呈を受けている。エルトマンスデルファーはラフの死後、未完成で遺された『交響曲第11番 作品214』を補筆完成させ、出版にこぎつけている[4]。また、アレグザンダー・マッケンジーの序曲『セルヴァンテス』 (Cervantes) を1877年にゾンダースハウゼンで初演した[5]

1882年に、エルトマンスデルファーはモスクワに赴き、ロシア音楽協会の演奏会の首席指揮者およびモスクワ音楽院の教授に就任した。彼は妻と共に1889年までその地にとどまった[6]

Remove ads

チャイコフスキーとの関わり

Thumb
パウリーネ・フィフトナー
A. Weger作

エルトマンスデルファーはチャイコフスキーと重要な関係にあった。チャイコフスキーは彼について「大げさなニュアンスによって大衆の好みを満足させようとする傾向」があり、また「ロシアの音楽(私のものは除くが)に対してぞんざいな態度を取る」と書き記しながらも、彼を「非常に技術に長けた、経験ある、熟練の指揮者」であるとみなしていた。チャイコフスキーはモスクワで、彼に以下の作品の初演を任せている。

チャイコフスキーの『組曲第3番』はエルトマンスデルファーに献呈されており、彼は1885年1月にモスクワ初演を行ったが、これはハンス・フォン・ビューローサンクトペテルブルクで世界初演を行った数日後のことであった[8]。エルトマンスデルファーが1881年10月30日、サンクトペテルブルクでのチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ Op.48」の初演を行ったとする文献があるが[9]、他の文献ではエドゥアルド・ナープラヴニークが初演したとされている。エルトマンスデルファーがモスクワ初演を受け持った可能性はあるだろう。

チャイコフスキーは『ハープサルの思い出』の第3曲「無言歌」のエルトマンスデルファーの編曲を高く評価しており、1892年には自らこれを指揮している。エルトマンスデルファーはアントン・ルビンシテインのピアノ小品の管弦楽編曲も行っている[10]。彼の自作曲は今日では忘れられている。

夫妻は1889年にドイツへ帰国し、ブレーメンに居を構えた後、1896年にミュンヘンへと移った。

エルトマンスデルファーはカール・オート(Carl Otho)が発明した5弦のコントラバスを導入した人物であると考えられている[11]

Remove ads

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads