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マリウス・セスティエ
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マリウス・イーリー・ジョゼフ・セスティエ(Marius Ely Joseph Sestier、1861年9月8日 - 1928年11月8日)[1]は、フランスの撮影監督。セスティエはオーストラリアで制作した作品で最もよく知られており、オーストラリア最初期の映画作品をいくつか撮影した。
ドローム県ソゼに生まれたセスティエは、リヨンで薬学を学び[2]、薬剤師の仕事をしていた[1]。彼は初期の映画製作者であるリュミエール兄弟(オーギュストとルイ・リュミエール)に雇われ、フランス国外でシネマトグラフのデモンストレーションをおこなった[3]。このため彼は、1896年6月にインドに赴き[4]、1896年7月7日にボンベイのワトソンズ・ホテルで、リュミエール兄弟が制作した6本の短編映画を披露したが[2][5]、これはインドで動画が上映された最初の機会であった[6]。セスティエはボンベイ滞在中に自ら映画の撮影もしたが、フランスの税関が未現像のフィルムのパッケージを開けたため、リュミエール兄弟はこれらの映画の品質に満足せず、カタログに掲載しなかった[7]。
インドでの仕事を完了した後、セスティエはシドニーに赴き、当地でフィルムの現像ができる暗室を構えていたオーストラリアの写真家ヘンリー・ウォルター・バーネットと出会った[8]。
1896年9月、セスティエとバーネットは、チャールズ・ウェストマコット (Charles Westmacott) とともに、シドニーのピット・ストリートにオーストラリア初の映画館サロン・リュミエール (Salon Lumière) を開設した[9][10][11]。セスティエとバーネットは、自分たちで独自の映画作品を制作し始め、まず最初にマンリーに到着したフェリー PS Brighton から下船する乗客たちの姿を捉えた短編映画を作ったが、これはオーストラリアで最初に撮影され、上映された映画となった[12]。セスティエとバーネットは、シドニーとメルボルンで19本ほどの映画を共同して制作したが[12]、中でも特筆すべきなのは1896年のメルボルンカップの競馬であった。この呼び物となった映画は、時系列順に表示される1分間の映画10本で構成され(当時のカメラの制約により、映画を分割する必要があった)[3]、1896年11月19日にメルボルンのプリンセス劇場で初公開され[13]、セスティエはその際に講演もおこなった。その模様は、『ジ・エイジ』紙や『ザ・ブレティン』誌といったオーストラリアのマスコミで取り上げられ、また、オーストラリアで最初の映画制作として言及されてきている[3]。
バーネットとのビジネス・パートナーシップが終了した後も、セスティエはオーストラリアを巡回し続け、1897年5月までシネマトグラフのデモンストレーションと映画の上映を続けた。フランスに戻った後、彼はリュミエール特許会社の取締役になった[4]。
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フィルモグラフィ
オーストラリア
脚注
外部リンク
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