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マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ

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マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ
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マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラMaria Sofia di Baviera, 1841年10月4日 - 1925年1月19日)は、両シチリアフランチェスコ2世の王妃。ガブリエーレ・ダンヌンツィオに「厳格なバイエルンの小鷲」、マルセル・プルーストに「ガエータ城塞の戦士女王」と呼ばれた。オーストリア皇后エリーザベトの妹にあたる。

概要 マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ Maria Sofia di Baviera, 在位 ...
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生い立ち

要約
視点

バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系に属するバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフとその妃であるルドヴィカ王女の娘として、ミュンヘンで生まれた。ドイツ語名はマリー・ゾフィー・アマーリエ・イン・バイエルンMarie Sophie Amalie in Bayern)。姉にヘレーネオーストリア皇后エリーザベトが、妹にフランチェスコ2世の異母弟であるトラーニ伯ルイジの妃マティルデがいる。

マリーア・ソフィア 父:
バイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフ
祖父:
バイエルン公ピウス・アウグスト
曽祖父:
バイエルン公ヴィルヘルム
曽祖母:
マリア・アンナ
祖母:
アマーリエ・ルイーゼ
曽祖父:
アーレンベルク公子ルイ・マリー・ウジェーヌ
曽祖母:
マリー
母:
バイエルン公妃ルドヴィカ
祖父:
マクシミリアン1世 (バイエルン王)
曽祖父:
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公子フリードリヒ
曽祖母:
プファルツ=ズルツバッハ公女マリア・フランツィスカ
祖母:
カロリーネ[5]
曽祖父:
バーデン辺境伯カール・ルートヴィヒ
曽祖母:
ヘッセン=ダルムシュタット方伯アマーリエ
より詳細な系譜
さらに見る マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラの系譜 ...
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結婚と即位

1859年2月、マリーは両シチリア王フェルディナンド2世の息子で王太子であるカラブリア公フランチェスコと結婚した。この結婚は政治的なものであった。彼女の姉エリーザベトがオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚しており、后妃を介してオーストリア皇帝と未来の両シチリア王が義兄弟になるからである。代理結婚が行われたときにはマリーはまだ初潮も迎えていなかった。嫁ぐ前に彼女はウィーンにいる姉エリーザベトを訪問した。マリーとエリーザベトはオーストリア帝国の港湾都市トリエステまで一緒に行き、そこでマリーが両シチリア王国が派遣したヨットに乗ると2人は別れを告げた。その年のうちに義父フェルディナンド2世が没すると、フランチェスコが両シチリア国王フランチェスコ2世として即位し、彼女もそれにともない同王妃マリーア・ソフィアとなった。

イタリア統一と両シチリア王国の滅亡

1860年9月、ジュゼッペ・ガリバルディの軍勢が首都ナポリに押し寄せると、王はカプアで体勢を立て直そうと逃走した。しかし、カプアはヴォルチュルヌスの戦いでガリバルディ軍に陥落させられ、王と王妃はナポリ北80キロにある強固な要塞ガエータへ立てこもった。

1860年暮れから1861年初めまで行われたガエータ攻略で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の勢力は砲撃され、すぐに後退を余儀なくされた。この時からマリーア・ソフィアは「ブルボン家最後の砦」を守った「戦う王妃」という高い名声を得ることになった。彼女は精力的に働いて兵士の士気を上げ、要塞を陥落させようとする敵との死闘の間、傷病者を運び、自身の食物まで分け与えた。

亡命生活

ガエータ陥落と同時に両シチリア王国は瓦解し、国王夫妻はローマへ亡命した。それもつかの間、南の覇者ガリバルディと、北からサルデーニャ王軍がともにローマを目指して進軍してきた。フランチェスコは亡命政府をローマに樹立し、数年の間ヨーロッパ各国と調整を図り王国の復活を目指した。

1870年、ローマはついにイタリア王国のものとなり、フランチェスコとマリーア・ソフィアは再び亡命した。1894年に王は没した。マリーア・ソフィアはミュンヘンへいったん戻った後、パリへ移って、両シチリア王国の再興を図るための活動を行った。

マリーア・ソフィアは両シチリア王国再興のため、統一イタリア王国に対して政治工作を行っているとする噂があった。1900年のウンベルト1世暗殺事件に関わったと噂されたほか、第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア側に立って行動していたとする噂があった。

親族

国王フランチェスコとの間にできた唯一の女子は3か月で死去し、他に国王の子を授かることはなかった。王位請求権は異母弟のカゼルタ伯アルフォンソに受け継がれた。

1897年、妹ゾフィー・シャルロッテが火災現場から少女たちを助けようとして非業な死を遂げた。

1898年、姉エリーザベトが、無政府主義者により暗殺された。

肖像画


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