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マーカス・アレン
アメリカンフットボールの選手、ランニングバック (1960-) ウィキペディアから
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マーカス・アレン (Marcus LeMarr Allen,1960年3月26日 - )は、カリフォルニア州サンディエゴ出身のアメリカンフットボールの元選手である。 1982年から1997年まで、NFLのロサンゼルス・レイダースやカンザスシティ・チーフスでランニングバック(RB)として活躍した。現役中、12,243ラッシングヤード、5,412レシービングヤード、145タッチダウンを記録し、1万ヤードランと5千ヤードレシーブを記録したNFL初の選手である。
またアレンは、ハイズマン賞受賞、全米大学王者、スーパーボウル制覇、スーパーボウルMVP、NFLシーズンMVPのすべてを獲得している[1]。大学アメリカンフットボール殿堂とNFL殿堂の両方に選ばれている。
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経歴
要約
視点
高校
サンディエゴのエイブラハム・リンカーン高校時代はクォーターバックとセイフティとしてプレーした。1977年のCIF CIFタイトルゲームではランで5タッチダウン、1インターセプトに加えて195ヤードを走る活躍を見せた。
大学
1978年から1981年までUSCトロージャンズでプレーした。当初はセイフティとしてリクルートされた彼をジョン・ロビンソンヘッドコーチがテイルバックにコンバートした。
1年次の1978年はその年ハイズマン賞を受賞するチャールズ・ホワイトの控えを務めた。チームは全米チャンピオンとなった。
2年次の1979年はフルバックとして起用された。3年次の1980年にテイルバックの先発選手となり全米3位の1,563ヤードを走った(サウスカロライナ大学のジョージ・ロジャースが1,781ヤード、ジョージア大学のハーシェル・ウォーカーが1,616ヤードを走った)。
4年次の1981年に2,342ヤードを走った。この年の活躍でハイズマン賞、マックスウェル賞、ウォルター・キャンプ賞を受賞した。
4年間で通算4,664ヤードを走りランとレシーブで46タッチダウンをあげた。12試合で200ヤード以上を走っており、これはリッキー・ウィリアムズ、ロン・デインと並ぶNCAA記録である。
後に彼の背番号33番は永久欠番となった。
ロサンゼルス・レイダース
1982年のNFLドラフト1巡全体10位でロサンゼルス・レイダースに指名されて入団した。ストライキが起きてシーズンが短縮されたこの年、697ヤードを走りNFL最優秀新人攻撃選手に選ばれた。チームはAFCトップの8勝1敗でプレーオフに進出したが、ディビジョナルプレーオフでニューヨーク・ジェッツに敗れた。
1983年、初の1000ヤードラッシャーとなった。1984年1月22日の第18回スーパーボウルで191ヤードを走り2タッチダウンをあげてMVPに選ばれた。彼のあげた74ヤードのタッチダウンラン記録は第40回スーパーボウルでウィリー・パーカーが75ヤードのタッチダウンラン、ラン獲得191ヤードは第22回スーパーボウルでティミー・スミスが204ヤードを走るまでスーパーボウル記録であった。
1984年は1,168ヤードを走り18タッチダウンをあげた。
1985年は9試合連続で100ヤード以上を走るなど、1,759ヤードを走り11タッチダウン、シーズンMVPに選ばれた。
1987年から1990年まではボー・ジャクソンと併用されて彼の出場機会は減っていった。この間、オーナーのアル・デービスとも関係性が悪くなった。1989年はひざの負傷でシーズンの大部分を欠場した。
カンザスシティ・チーフス
1993年、カンザスシティ・チーフスに加入、764ヤードを走り、12タッチダウンをあげた。ジョー・モンタナも加入したチームはAFCチャンピオンシップゲームまで進出した。この年彼はプロフットボールライター協会からカムバック賞に選ばれた。エリック・ディッカーソンが1993年に引退したため現役選手として通算ラン獲得ヤードトップとなった。この記録は1997年の第1週にバリー・サンダースに更新された。1997年シーズン終了後に現役を引退した。
現役引退後
1999年にスポーティングニューズから偉大な100人のアメリカンフットボール選手の72位に選ばれた。
2003年、プロフットボール殿堂入りを果たした。また、2007年にカリフォルニア州のスポーツ殿堂入りを果たした。
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家族
弟のデイモン・アレンはカナディアン・フットボール・リーグの殿堂入りを果たしたQBである。
成績
関連項目
出典
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