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ミッキー・ハージティ

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ミッキー・ハージティ
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ミクローシュ・"ミッキー"・ハージティ(Miklós "Mickey" Hargitay、1926年1月6日 - 2006年9月14日)は、ハンガリーアメリカ人[1]俳優、1955年度のアマチュア部門ミスター・ユニヴァース。ハンガリーのブダペストに生まれ、1947年にアメリカ合衆国へ移住、後に市民権を取得した[2]。一時期ジェーン・マンスフィールドと結婚しており、女優マリシュカ・ハージティの父親でもある。マンスフィールドとの結婚期間に4本の映画で共演している。

概要 ミッキー・ハージティ Mickey Hargitay, 本名 ...
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生い立ちとスポーツ歴

1926年1月6日、ブダペストで4人兄弟の1人として生まれる。スポーツマンであった父に育てられ、兄弟全員がアスリートとなった。ハンガリーでの少年期、兄弟たちとアクロバットのチームを組んだ。彼らはブダペストで最も大きいオペラハウスも含む、ハンガリー中でパフォーマンスを演じるほど人気を博した。兄弟たちによりスポーツに目覚めたハージティは、スピードスケート競技を始めた。1946年、中央ヨーロッパ選手権において500メートルと1,500メートルで優勝し、5,000メートルでも2位にくい込んだ[2][3]。優れたサッカー選手でもあり、第二次世界大戦中は地下ファイターでもあった。

1947年、ハンガリーを旅立ちアメリカ合衆国に移住。クリーブランドに住み、この地でアクロバット仲間であるメアリー・バージと最初の結婚をした。バージとの間には1949年に生まれたティナという1人娘がいた。彼は配管工や大工として働き、当時の妻と共にアクロバットも演じた。ヘラクレスを演じた事で知られるスティーヴ・リーヴスが登場する雑誌の表紙を見て影響され、自らもボディビルを始めた。1955年にはアマチュア部門のミスター・ユニヴァース (NABBA) となった。ミスター・ユニヴァースを獲得しバージと離婚した後、ニューヨークのナイトクラブラテンクォーター英語版で演じられていたメイ・ウエストのショーの筋肉マン・パートに参加した。そこでジェーン・マンスフィールドと出会い、1958年に結婚した。

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俳優歴

最初の映画出演は、ジェーン・マンスフィールドが彼をキャスティングする事を希望した、1957年の『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?英語版』であった。前年にメイ・ウエストのショーを観ていたマンスフィールドがステージ上のハージティに気付き、ウエイターに「ステーキと左にいるあの背の高い殿方を所望するわ」と言ったと伝えられている[4]。2人は恋に落ち、離れがたくなっていた。20世紀フォックスはハージティの『ロック・ハンター』出演に難色を示した。ハージティがマンスフィールドの唯一の恋人と映るのを嫌ったためであり、彼らは「セックスシンボル」が誰の物でもない事を望んだのである。

1960年、ハージティとマンスフィールドは『The Loves of Hercules』に主演した。この映画はイタリアで撮影され、アメリカの映画館では未公開であったが、『Hercules vs the Hydra』(ヘラクレスヒドラ)というタイトルでネットフリックス上で公開されている。その後2人は1963年の『Promises! Promises!』と1964年の『L'Amore Primitivo』で共演した。1965年にはマンスフィールド抜きで『惨殺の古城』に主演を果たした。

ハージティの俳優としての経歴は、アメリカ合衆国に限られていない。多くのイタリア映画にも出演し、ハンガリーの監督ジョアジ・ソミアス英語版の1988年の映画『Mr. Universe』にも出演した[5][6]

2003年、最後の出演となった『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』で娘マリシュカとの共演を果たした。シーズン5のエピソード「過ちの代償」(Control) で、ハージティは地下鉄駅構内のエスカレーターで起きた惨劇の余波の目撃者を演じた。マリシュカの演じるオリビア・ベンソンに聞き込み調査を受けるシーンで、父娘が同じ画面に登場する。

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私生活

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2番目の妻ジェーン・マンスフィールドと踊るハージティ(1962年)

最初の妻メアリー・バージとの間には、一人娘のティナ・ハージティ(1949年 - )が生まれた。バージとは1956年9月6日に離婚。

2番目の妻ジェーン・マンスフィールドとは1958年1月13日に結婚。ミクローシュ・ジェフリー・パーマー・ハージティ(1958年12月21日 - )、ゾルターン・アンソニー・ハージティ(1960年8月1日 - )、マリシュカ・マグドリーナ・ハージティ(1964年1月24日 - )の3人の子供たちがいる。ハージティはビバリーヒルズにある「ピンク・パレス」と呼ばれた2人の邸宅を大幅に改装し、有名なハート型のプールを造った[7]。2002年11月、この邸宅は最後の所有者エンゲルベルト・フンパーディンクから購入した開発業者によって取り壊された。

1963年5月、ハージティとマンスフィールドはメキシコシウダー・フアレスで離婚。この離婚は法的に無効とされ、2人は1963年10月に和解。マリシュカ誕生後、マンスフィールドはフアレスでの離婚は合法であるとの訴訟を起こし勝訴した。1964年8月26日、2人の離婚はアメリカ合衆国で正式に認められた。1967年6月29日の自動車事故によるマンスフィールドの死後、ハージティは子供たちのためにマンスフィールドの財産を5,000ドル以上受け取れるよう訴えた。2人の離婚判決の際にはマンスフィールドは子供の養育費を支払い、ハージティにおよそ70,000ドルの現金と所有地を与えることに同意した。

1967年9月、エレン・シアーノと再婚。シアーノとはハージティが死去するまで39年間添い遂げた。

アーノルド・シュワルツェネッガーは、1980年のテレビ映画『愛しのジェーン・マンスフィールド英語版』でミッキー・ハージティ役を演じた。

死去

2006年9月14日、ハージティは多発性骨髄腫によりロサンゼルスで死去、満80歳であった。ロサンゼルス・タイムズは、ハージティの死亡記事に以下の様に記した[8]

ウォルター・ウィンチェルはかつてこう言った。[大統領]アイゼンハワーはゴルフに貢献し、ミッキー・ハージティはボディビルに貢献した。なぜなら彼がそれをメジャーに押し上げたからだ。」と、ジーン・モジー(アイアンマン誌のボディビル史家・作家)は月曜日に本紙に語った。「当時はボディビルは一般的な人気がなく、異常で風変わりな活動とみなされていた」とモジー。 「あの頃はスポーツマンタイプのコーチはウェートトレーニングに懐疑的で、身体を束縛する筋肉を作ると考えていた。そして偉大な万能アスリートであるミッキー・ハージティが現れたんだ。」

出演作

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脚注

外部リンク

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