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メクレンブルクの統治者一覧
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メクレンブルクの統治者家門はスラヴ人の部族国家オボトリート族の族長の血を引いており、厳密にはヴィスマール郊外にあるメクレンブルク村(Dorf Mecklenburg)に建っていたメクレンブルク城(Mecklenburg (Burg))をその揺籃の地としている。メクレンブルクは1167年よりドイツ国家の封土となり、最初はザクセンの宗主権下にあったが、1348年には帝国直属身分を認められて、支配者の一族は「メクレンブルク公(Herzog zu Mecklenburg)」の称号を許された。メクレンブルクは支配者が近隣の諸邦と比較してもかなり頻繁に領土の分割相続を行ったにもかかわらず、君主制の終焉まで古くからの領国を保持し続けた。分邦としては、メクレンブルクの他にヴェルレ(Herrschaft Werle)、パルヒム=リヒェンベルク(Herrschaft Parchim-Richenberg)、ロストック(Herrschaft Rostock)が存在していた。比較的新しい時代には、1378年から1471年まではメクレンブルク=シュヴェリーン(第1次)とメクレンブルク=シュタルガルト(Mecklenburg-Stargard)、1555年から1695年まではメクレンブルク=シュヴェリーン(第2次)とメクレンブルク=ギュストロー(Mecklenburg-Güstrow)、1701年のハンブルクの和議(Hamburger Vergleich)の締結以後はメクレンブルク=シュヴェリーン(第3次)とメクレンブルク=シュトレーリッツにそれぞれ分裂していた。しかしメクレンブルクの支配者家門は、封建上の制約からあくまでその支配領域は単一不可分なものと見なされており、同一の称号を持つメクレンブルクの為政者が常に2人存在したため、外交上の混乱を招くこともしばしばだった。

1815年のウィーン会議の決定により、メクレンブルクに2人存在していた統治者たる公爵は、どちらも「メクレンブルク大公(Großherzog von Mecklenburg)」の称号を授けられ、また敬称も2人の大公たちのみは王家の殿下(Königliche Hoheit)となった。2つの分邦は、これ以後大公国と呼ばれることになった。メクレンブルクでは2人の君主、2人の世嗣、そしてそれぞれの配偶者、さらに別々に存在する2つの支配者家門の全ての成員がメクレンブルク公(または女公)の称号を有したが、これはドイツの諸侯家の子女が一般的に使用するプリンツ(Prinz)の称号を使わない点で特異であった。メクレンブルクの支配者の称号は、メクレンブルク公(1815年より大公)、ヴェンデン、シュヴェリーンおよびラッツェブルク侯、シュヴェリーン伯、ロストックおよびシュタルガルトの領主(Herzog zu (Großherzog von) Mecklenburg, Fürst zu Wenden, Schwerin und Ratzeburg, auch Graf zu Schwerin, der Lande Rostock und Stargard Herr)であった。
君主制が崩壊するまで、メクレンブルク家はドイツ最古の諸侯の家系であった。ヴァイマル共和国の成立後、一般人となったメクレンブルク家の人々は姓として「ヘルツォーク・ツー・メクレンブルク(Herzog zu Mecklenburg)」を使用した。
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オボトリート族の族長
オボトリート地方の領主
ヨハン1世の直系(メクレンブルク)
ニコラウス1世の直系(ヴェルレ)
ハインリヒ・ボルヴィン3世の直系(ロストック)
プリビスラフ1世の直系(パルヒム=リヒェンベルク)
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メクレンブルク公
メクレンブルク=シュヴェリーン系(第1次および第2次)
メクレンブルク=シュタルガルト系
メクレンブルク=ギュストロー系
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メクレンブルク公(大公)
メクレンブルク=シュヴェリーン系(第3次)
メクレンブルク=シュトレーリッツ系
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参考文献
- Friedrich Wigger: Stammtafeln des Großherzoglichen Hauses von Meklenburg. In: Jahrbücher des Vereins für Mecklenburgische Geschichte und Altertumskunde 50 (1885), S. 111ff (Digitalisat)
関連項目
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