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ユーリー・ダヴィドヴィチ
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ユーリー・ダヴィドヴィチ(ロシア語: Юрий Давыдович、? - 1237年)は、ムーロム公ダヴィド(ru)の子である。ムーロム公:1228年 - 1237年。
生涯
1228年、兄と父が相次いで死亡したためムーロム公位を継いだ。1229年、1232年にはウラジーミル大公国のユーリー2世のモルドヴァ族に対する遠征に参加した。1237年、モンゴル帝国軍がリャザン公国の南の国境地帯に現れたため、ムーロム、リャザンの公たちはヴォロネジ川へと軍を進めた(ヴォロネジ川の戦い)[1]。ユーリーは同年に、モンゴル帝国軍との戦いで戦死した[2]。なお、これらの一連の戦いをもとに書かれた『バトゥのリャザン襲撃の物語』[注 1]では、当時のムーロム公を「リャザン公の兄弟のダヴィド・イングヴァレヴィチ」と誤って記している[3][4][注 2]。
妻の名は不明である。子にはムーロム公ヤロスラフがいる。
脚注
参考文献
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