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ヨハネウム学院

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ヨハネウム学院Gelehrtenschule des Johanneums)は、ドイツハンブルクにある学校。ハンブルクで最も伝統のある学校で、創立は1529年[1]。ラテン語とギリシャ語を教える学校である[2]

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1840年に落成した新校舎。後に大学図書館となるが、第二次世界大戦中のハンブルク大空襲で全壊した。

歴史

要約
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ブーゲンハーゲン(1532年)

ヨハネウム学院はヨハネス・ブーゲンハーゲンドイツ語版(1485-1558)によって1529年に設立された。これには宗教改革と新旧両派の対立が深く関わっている。ドイツ北部の帝国自由都市ハンブルクでは、新教側旧教側の教会の特権や資産を剥奪し、それを以って新しい学校の設立に充てたのだった。

宗教改革と古典語教育

ブーゲンハーゲンは、宗教改革を行ったマルティン・ルター(1483-1546)の右腕とも言える存在で、ヴィッテンベルクからルターの教えをドイツ北部や北欧に広めた人物である。ルターはラテン語を読めずドイツ語しかわからない民衆のためにドイツ語訳聖書を作ったが、それはもっぱらドイツ南部で使われている高地ドイツ語に則って書かれていて、ドイツ北部で使われている低地ドイツ語地域では必ずしもじゅうぶんに意味が通じるものではなかった。ブーゲンハーゲンはルターの聖書をさらに低地ドイツ語に翻訳し、ドイツ北部からバルト海沿岸、北欧へと伝導していったのである[3][4]

彼らはまた北ドイツ各地の領邦諸国や自由都市の学校改革に取り組んだ。その中心となったのが「ギムナジウム」(Gymnasium)と称する中等教育機関の設立である。中世以来、諸国の大学(高等教育機関)では、哲学神学を修めるための準備段階として、ヘブライ語ギリシア語ラテン語の3古典語と数学といった、基礎的素養を習得する期間を設けていた。ギムナジウムはそうした準備教育を引き受ける機関として創設され、大学は準備教育から解放されることになった[注 1][5][6][3]。学者を育てるための学校という目的のため、「ギムナジウム」は「学者学校」の訳語が当てられる場合もある。これに対して学校卒業後に社会にでる者を養成することを目的とする学校を「Realschule(リアルシューレ、実科学校)」という[7]

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創立者ブーゲンハーゲンの銅像

なお、現代の教育体系では「ギムナジウム」は中等教育機関に位置づけられているが、当時は、大学への準備教育として古典語教育を行うという趣旨の学校があちこちで設立されるにあたって、名称は領邦ごとにまちまちだった。「ギムナジウム」以外に用いられた名称としては、「Fürstenschule(フュルステンシューレ、王侯学校[注 2])」、「Landesschule(ランドシューレ、領邦学校)」、「Pedagogium(ペダゴギウム[注 3])」などがあり、総称として「Gelehrtenschuleゲレールテンシューレ、学者学校、古典語学校、教養学校)」とも言う[6]。ヨハネウム学院もギムナジウムとして設立されたものであるが、名称は「Gelehrtenschule des Johanneums」と「ゲレールテンシューレ」を称している[5][6][3][8]

ハンブルクでの宗教改革と学院の創立 

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1589年のハンブルクの地図に描かれた聖ヨハネス教会とヨハネウム学院

ドイツ北部の自由都市ハンブルクには、教区教会が4つ、そのほかフランチェスコ会シトー会ドミニコ会などの教会や修道院があり、それらの聖職者たちは市参事会員としての政治的権力をはじめ、免税や裁判などの世俗的な特権を有していた。宗教改革が始まると、各教区の中で分裂や対立が始まり、市民は旧教の聖職者たちの追放を求めて衝突するようになった。この混乱が落ち着くまでには数年を要し、最終的にブーゲンハーゲンを招致してハンブルクの教会と学校の規定の作成を任せることになった[9][10][5][4]

ブーゲンハーゲンは、ハンブルク聖堂と聖ニコライ教会など教区教会に附属していたラテン語学校を閉鎖、これらを一元化して、聖ヨハネス教会の修道院を学校とすることにした。これがヨハネウム学院の始まりである。初代の校長にはヴィッテンベルクのテオフィルス・ヘルメラートゥス(Theophilus Hermelates)が招聘された。開校日は1529年5月24日で、これはブーゲンハーゲンが創立したギムナジウムとしては前年のブラウンシュヴァイクに次いで2番めのものだった[5][4][9][10][注 4]

創立当時の授業料は、上流階級の子弟は年に銀貨8枚、普通の子弟はその半額[注 5]、貧困層の子弟は免除となっていた。教師は7名から成り、Magister(マジスター、修士)であり豊かな学識をもつ校長(Rektor)、副校長(Subrektor)1名、平教員(Pedagogy)4名、それに合唱指揮者Kantor)がいた。学院は5学級から構成されていた[注 6][5]

ところで、「北ドイツの福音伝道師」と称されたブーゲンハーゲンは必ずしも「聖人」でなかったことを示す逸話がハンブルクに残されている。学校設立を依頼されたブーゲンハーゲンは、妻子や従者を引き連れて自由都市ハンブルクにやってきて8ヶ月にわたって滞在したのだが、その間、ハンブルク市による接待などを受けて豪遊し、立ち去るときにも法外な謝礼をとった。ブーゲンハーゲンが受け取った額は、ギムナジウムの校長の2年半ぶんの収入に相当する金貨100枚、さらにブーゲンハーゲンの妻までも金貨20枚を得ている。一行はハンブルクの次にリューベックへギムナジウムを設立しに行くのだが、そこでも純金製の酒杯や杖を受け取っている。ブーゲンハーゲンの従者が「使徒は伝道の謝礼を受け取ったでしょうか」と尋ねると、ブーゲンハーゲンは「そうだ」と答えたという[5]

学院の移転と現状

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シュペアゾルトに移転後の校舎(1840年)
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マリア・ルイーザ通りの現校舎

当初はゲレールテンシューレ(学者学校、古典語学校)として学者を養成し、啓蒙主義時代の識者を輩出していたが、後には「Bürgerschule(ビュルガーシューレ、市民学校)」となり、商人たちの子息を教えるようになった[2]

ハンブルク市では19世紀前半になると、老朽化した学院の校舎と聖ヨハネス教会の再築の計画がもちあがった。資金集めには10年以上を要し、最終的に1838年から新校舎の建築が始まった。新しい学院は、シュペアゾルト(Speersort)地区の大聖堂跡地に立てられることになった。なお、元の校舎があった場所は、今は市庁舎前の広場になっている。1840年に完成した新校舎は、左右両翼の棟の中央にアーケードがあり、その中央の南面に正門が設けられている。完成の2年後の1842年にはハンブルク大火があったが、新校舎はこれを耐え抜いて無事だった[1][2][11]

1914年に、学院は新たにマリア・ルイーザ通り(Maria-Louisen-Straße)114番に移転することになった。これが現在のヨハネウム学院の校舎である。校舎はフリッツ・シューマッハーの設計によるもので、ハンブルク市の文化遺産(1979年指定)となっている。敷地内のブーゲンハーゲンの銅像は彫刻家のエンゲルバート・ファイファー(Engelbert Peiffer)が1888年に製作したもので、こちらも文化遺産(1958年指定)である[1][2][11][12]

2007年5月24日に、学院に新しい体育館が建築された。体育館のほか、劇場や音楽室、美術室、喫茶室なども兼ね備えた3階建ての会館である。建設費はほとんど寄付で賄われたが、総工費550万ユーロのうち、学院の卒業生である匿名の篤志家が1人で100万ユーロを寄付したと伝えられている[11]

なお、1840年築の旧校舎はハンブルク大学の図書館(Staats- und Universitätsbibliothek Hamburg)として利用されていたが、1943年のハンブルク空襲で破壊された。僅かに残っていた部分も戦後の道路拡張によって撤去された[2]

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教員

要約
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ヨハネウム学院の教授ともあろう者が、この世界の現象に理由を見つけることができなかったら、これは恥辱のきわみだ![13]オットー・リーデンブロック教授、『地底旅行

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』(1864年)に出てくるオットー・リーデンブロック教授はヨハネウム学院の鉱物学の教授ということになっている。

歴代校長

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ヨハネウム学院の校章
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17世紀の校長Joachim Jungius
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18世紀の校長Johann Albert Fabricius
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19世紀の校長Johann Gottfried Gurlitt
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19世紀の校長Richard Hoche
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音楽指導者Thomas Selle
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音楽指導者テレマン
就退任年名前生没年備考
1529 – 1537Theophilus Hermelates (Theophil Freytag)
1537 - 1565Matthäus Delius1500 - 1565
1565 - 1574Martin Mecklenburg
1575 - 1590Werner Rolfinck
1591 - 1619Paul Sperling
1620 - 1626Zacharias Scheffter1568 - 1626
1627 - 1628Johann Huswedel1575 - 1651
1629 - 1640Joachim Jungius1587 - 1657
1640 - 1651Daniel Arnoldi
1651 - 1660Peter Westhusen
1661 - 1680Heinrich Dassov
1681 - 1682Gottfried Voigt
1683 - 1708Johannes Schultze
1708 - 1711Johann Albert Fabricius1668 - 1736
1711 - 1731Johann Hübner1668 - 1731
1732 - 1773Johann Samuel Müller1701 - 1773
1773 - 1781Johann Martin Müller1722 - 1781
1782 - 1799Anton August Heinrich Lichtenstein1753 - 1816
1802 - 1827Johann Gottfried Gurlitt1754 - 1827
1827 - 1861Friedrich Karl Kraft1786 - 1866
1863Theodor Kock1820 - 1901
1864 - 1874Johannes Classen1805 - 1891
1874 - 1888Richard Hoche1834 -1906
1888 - 1919Friedrich Schulteß
1919 - 1925Emil Badstübner
1925 - 1933Edmund Kelter1867 - 1942
1933 - 1942Werner Puttfarken1889 - 1964
1942 - 1945Erwin Zindler
1945 - 1946Wilhelm Sieveking1895 - 1946
1946 - 1951Hans Wegner
1951 - 1952Helmut Thede
1952 - 1953Heinz Fahr
1954 - 1961Hans Oppermann1895 - 1982
1961 - 1968Harald Schütz
1968 - 1970Horst-Heinz Rußland
1970 - 1972Peter Steder
1972 - 2001Hans-Friedrich Bornitz
2001 - 2011Uwe Reimer
2011 -Inken Hose
  • (2017年1月1日現在[14]

教員

音楽指導者

就退任年名前生没年備考
1580/1581 - 1590Franz Eler000? – 1590Succentorとして
1605 - 1637Erasmus Sartorius1577 - 1637
1641 - 1663Thomas Selle1599 – 1663
1663 - 167?クリストフ・ベルンハルト1628 - 1692
1675 - 1721Joachim Gerstenbüttel1650 - 1721
1721 - 1767ゲオルク・フィリップ・テレマン1681 - 1767
1768 - 1788カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ1717 - 1788バッハの次男。
1789 - 1822Christian Friedrich Gottlieb Schwencke1714 - 1788
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主な出身人物

16世紀

17世紀

18世紀

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1744年の校舎

19世紀

20世紀以降

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脚注

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