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ラシュト

イランの都市 ウィキペディアから

ラシュト
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ラシュトペルシア語: رشت; Rasht [ɾæʃt] ( 音声ファイル))はイラン北西部の都市でギーラーン州の州都。バンダレ・アンザリー経由のカフカズロシアとイラン間の交易における中心地の1つであり、観光の中心ともなっている。ラシュトの人口は2005年の統計で560,123人である

概要 ラシュト رشت, 位置 ...
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気候

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言語

ギーラキー語の話者300万人以上のほとんどがギーラーン州に住む。ギーラキーは、インド・ヨーロッパ語イラン語派のうち北西イラン語に属する。北西イラン語はギーラキーおよびギーラキーと密接な関係をもつマーザンダラーン語から構成され、ギーラキーはさらにビエ・パスとビエ・ピーシュの2方言に分かれる。ビエ・ピーシュ方言はラーヒージャーンラングルードなどギーラーン東部で話されるのに対し、ラシュトやフーマーンなどセフィード川より西で話されるのがビエ・パス方言である。ギーラキーは口頭言語であって、イランにおける公用語とはなっていない。

ラシュトの名は、おそらくロスタムに由来するものである。ロスタムは現在のマーザンダラーン州域で「白い悪魔」を掃討したとされる。

人びとと文化

ギーラキー語ペルシア語タリーシュ語を話す人びとがいる。

高等教育機関

歴史

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ラシュトの古いモスク (1886年)

ラシュトの文献史料上の初見は682年であるが、おそらく街の歴史はそれより古く、サーサーン朝の時代にはこの地に都市があった。近代にはロシア帝国のピョートル大帝やイギリス軍が進駐した街である。イラン立憲革命ではラシュト蜂起を通じて大きな役割を果たした。

年表

682年
文献上のラシュトの初見。
1669年
カザークの司令官スチェパン・ラージンによる略奪。
1722年 - 1734年
第1次ロシア・イラン戦争でのピョートル大帝による占領。
1901年
大規模な疫病による荒廃
1917年 - 1920年
ラシュトおよび港市バンダレ・アンザリーにおける英露両軍の戦闘。英軍は撤退し、ロシア軍が地域を占領。ラシュトを首都としてギーラーン共和国が成立。1920年ボリシェヴィキのロシア人がバーザールに放火し大火。多くの市民が避難。
1937年
ロシア人からの「通行税」徴収を目的とした暴動発生。鎮圧。
1974年
ラシュト最初の大学が設けられる。
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ラシュト出身の著名人

  • マジード・サミーイー
  • エブラーヒーム・プールダーウード(1885年生)
  • ミールザー・クーチャク・ハーン
  • フーシャング・エブテハージュ
  • マルジャーネ・サトラーピー
  • アイドゥン・アグダーシュルー(1940年生)
  • ファズロッラー・レザー
  • マフムード・ナムジュー
  • モハンマド・モイーン
  • アルセン・ミナースィヤーン
  • アルデシール・モハッセス

近郊

  • チョマールサーラー
  • ゴルサール
  • キャルファーバード
  • ハーレマム
  • ラカーン・シャフル
  • マンザリーイェ
  • ノグレダシュト
  • オスタードサーラー
  • ピールサーラー
  • ラシュティヤーン
  • サガーリスアザーン
  • パールク・シャフル
  • タフティー

脚注

外部リンク

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