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リチャード・カーゾン=ハウ (第3代ハウ伯爵)
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第3代ハウ伯爵リチャード・ウィリアム・ペン・カーゾン=ハウ(英語: Richard William Penn Curzon-Howe, 3rd Earl Howe GCVO CB、1822年2月14日 – 1900年9月26日)は、イギリスの貴族、軍人。最終階級は陸軍大将[1]。
生涯
初代ハウ伯爵リチャード・カーゾン=ハウと1人目の妻ハリエット・ジョージアナ(Harriet Georgiana、旧姓ブルーデネル(Brudenell)、1799年12月18日 – 1836年10月25日、第6代カーディガン伯爵ロバート・ブルーデネルの娘)の間の次男として、1822年2月14日に生まれた[1]。
1838年7月14日、Ensign and Lieutenant(中尉)としての辞令を購入して、グレナディアガーズに配属された[2]。1844年4月5日、Lieutenant and Captain(大尉)としての辞令を購入して昇進した[3]。コサ戦争に参戦して、1852年から1853年までの戦役における功績によりコサ戦争メダルを授与された[1]。1853年5月31日、少佐への名誉昇進辞令を得た[4]。1854年6月20日、Captain and Lieutenant-Colonel(中佐)に昇進した[5]。インド大反乱では1857年のデリー包囲戦に参戦して、1858年にメダルを授与された[1]。大佐への名誉昇進を経て、1857年11月17日に大佐に正式に昇進した[6]。1864年6月、半給になり軍務から引退した[7]。1869年8月3日、少将に昇進した[8]。1877年10月2日、中将に昇進した[9]。1879年2月6日、第94歩兵連隊隊長に任命された[10]。同年6月25日、第17歩兵連隊隊長に転じた[11]。1880年3月16日、大将に昇進した[12]。1881年7月1日より退役軍人扱いになったが[13]、連隊長の職は保持し、1890年1月5日にライフガーズ第2連隊隊長に転じ[14]、以降1900年に死去するまで務めた[1][15]。
1858年1月21日、バス勲章コンパニオンを授与された[16]。1897年6月30日、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[17]。
1876年2月4日に兄ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイスが死去すると、ハウ伯爵位を継承した[1]。貴族院では保守党に属した[1]。
1876年6月28日にレスターシャー・ヨーマンリー連隊の名誉隊長に就任[18]、1895年6月19日に辞任した[19]。1888年6月18日にレスターシャー統監に任命され[20]、1900年まで務めた[1]。
1900年9月26日にレスターシャーのゴップサルで死去、29日にバッキンガムシャーのペン・ストリートで埋葬された[1]。長男リチャード・ジョージ・ペンが爵位を継承した[1]。
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家族
1858年2月8日、イザベラ・マリア・キャサリン・アンソン(Isabella Maria Katherine Anson、1922年3月29日没、ジョージ・アンソン閣下の娘)と結婚[1]、3男2女をもうけた[21]。
- 男子(1859年11月26日 – 1859年11月26日[21])
- リチャード・ジョージ・ペン(1861年4月28日 – 1929年1月10日) - 第4代ハウ伯爵[22]
- イーヴリン・アリス(1862年4月10日 – 1913年10月4日) - 1896年4月25日、ジョン・エア(John Eyre)と結婚[22]
- イーディス・セシリア(1864年5月10日[21] – 1936年9月20日) - 1896年4月18日、ハリー・ウォルター・フランクリン(Harry Walter Franklin、1915年3月14日没、ジェームズ・フランクリンの息子)と結婚、子供あり[22]
- フレデリック・グラハム(1868年3月5日 – 1920年11月4日) - 1894年9月11日、ミニー・エリス・ガートルード・ジェフリーズ(1943年1月21日没、ドッズワース・ジェフリーズの娘)と結婚、子供あり。2人は1903年に離婚した[22]。第7代ハウ伯爵フレデリック・カーゾンの祖父[23]
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出典
外部リンク
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