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ルキウス・コルネリウス・スキピオ (紀元前350年の執政官)
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ルキウス・コルネリウス・スキピオ(ラテン語: Lucius Cornelius Scipio、生没年不詳)は紀元前4世紀の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前350年に執政官(コンスル)、紀元前340年には監察官(ケンソル)を務めた。
出自
パトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族のスキピオ家出身である。父のコグノーメン(第一名、個人名)はプブリウスで、おそらく紀元前395年の執政武官プブリウス・コルネリウス・スキピオである。プブリウスは歴史に登場する最初のスキピオ家の人物である。
経歴
紀元前348年、執政官選挙中にインテルレクス(期限5日の最高職)を務めた[1]。
紀元前350年、スキピオは執政官に就任。スキピオ家としては最初の執政官である。同僚執政官はプレブス(平民)出身のマルクス・ポピッリウス・ラエナスであった[2]。このとき、ローマはガリアと戦争状態にあったが、スキピオは病気となってしまったため、ラエナスがローマ全軍の指揮を執ることとなった。
ラナエスはガリアに勝利して凱旋式を実施したが、そのときの負傷[3]のため翌年の執政官選挙を運営できず、選挙実施のためにルキウス・フリウス・カミッルスが独裁官に任命された。カミッルスはスキピオをマギステル・エクィトゥム(騎兵長官であるが、この場合は選挙の副管理人)に指名した。翌年の執政官に当選したのはカミッルスとアッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシスで、両者ともパトリキであった。ティトゥス・リウィウスは、このため市民は選挙結果に不満を持ったとしている[4]。
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脚注
参考資料
関連項目
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