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ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリティヌス
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ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリティヌス(Lucius Cornelius Maluginensis Uritinus)は共和政ローマの政治家、軍人。紀元前459年に執政官を務めた。
経歴
紀元前459年に執政官に就任、同僚執政官はクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスであった[1]。
歴史家ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃 - 17年)によると、ルキウス・コルネリウスは敵軍の攻撃に備えてローマに留まり、他方クィントゥス・ファビウスはウォルスキを攻撃し、アンティウム(現在のアンツィオ)前面を遮断した[2]。ハリカルナッソスのディオニュシオス(紀元前60年 - 紀元前7年以降)は、ルキウス・コルネリウスがアンティウムを攻撃したとする。ルキウスはローマの植民地であったアンティウムを包囲し、ウォルスキとアンティウムの反乱軍に勝利した[3]。
両者の話に相違はあるが、リウィウスもディオニュシオスもクィントゥス・ファビウスがアエクイに占領されていたトゥスクルム(en)を奪還したという点では一致している[1][4]。
両執政官はローマに戻り、凱旋式を実施した[5]。また、4年前に護民官ガイウス・テレンティリウス・ハルサ(en)が提出していた法案に対する投票を阻止した(この法案はこの後も長期間審査され、ローマ初の成文法である十二表法が成立する)。
また、この年に第10回目の国勢調査が実施され、ローマ市民は117,319人(兵役義務がある成人男子)であるとされた[6]。
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参考資料
関連項目
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