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ロン・メイル
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ロン・メイル(Ron Mael、1945年8月12日 - )はアメリカ合衆国出身のロック・ミュージシャン。弟のラッセルと共に、50年以上にわたってスパークスのメンバーとして活動を続けている。
来歴
要約
視点
生い立ち
本名ロナルド・デヴィッド・メイル(英: Ronald David Mael)。カリフォルニア州ロサンゼルス郡カルバーシティ生まれ。3歳年下のラッセル(本名ラッセル・クレイグ・メイル、英: Russell Craig Mael)は1948年10月5日に同郡サンタモニカで生まれた。兄弟はロサンゼルス近郊にある同郡パシフィック・パリセイズ[注釈 1]の裕福で主に住宅地となっている地域で育った[1]。
1954年には、彼らがカルバーシティで開かれた第4回Fiesta La Ballona祭[注釈 2]でネイティブ・アメリカンの衣装を着ている姿が新聞に掲載された[2]。彼らが呼ぶところの「典型的なハリウッド・ママ」だった母親[注釈 3]に商品カタログ[注釈 4]のモデルをやらされたこともあった。
ロンは6歳から9歳まで先生についてピアノを習った。画家で『ハリウッド・シチズン』紙のグラフィック・デザイナーだった父親は映画やポピュラー音楽の熱心な愛好家で、息子達にエルビス・プレスリーの「ハウンドドッグ」、リトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」、ジェリー・リー・ルイスの「ブレスレス」などのレコードを買い与えた[3]。しかし1957年2月、ロンが11歳の時、彼は40歳で急死した[4]。夫を失った母親は「おそらく芸術家と結婚していたがゆえに、自分達がミュージシャンになりたがっていたことをある程度理解していたようで」、息子達に音楽を聴かせるだけでなく、彼らを数えきれないくらいの映画に連れて行って楽しませた。彼女は女手一つで息子達を大学に行かせようと懸命に働き、やがて再婚してパシフィック・パリセイズで雑貨屋を営んだ。
1964年2月、兄弟はエド・サリヴァン・ショーに出演したビートルズを観た。そして同年8月20日にラスベガス・コンベンション・センター、翌年にはハリウッド・ボウルで彼らのコンサートを体験した[5]。他にはラジオから流れるモータウンの音楽を聴き、エド・サリヴァン・ショーでスプリームスを観、ロックン・ロールからサーフ・ミュージックに至るまでのシングル・レコードを買い集めた[注釈 5]。彼らはビーチ・ボーイズの愛聴者ではあったが、もっぱらイギリスの音楽に影響を受けた。彼らの「イギリスびいきの嗜好」(Anglophile tastes)は、マージー・ビートに取って代わったサイケデリック・ロックの影響を受けたモッド・ポップに広がっていった。ヤードバーズの「幻の10年」(1966年)、ザ・フーの「いれずみ」(1967年)、キンクスの「ウォータールー・サンセット」(1967年)などがお気に入りだった[6]。
1964年、ロンはパリセイズ高校からカリフォルニア大学ロサンぜルス校(UCLA)に進学してグラフィック・デザインを専攻[4]。1966年にはラッセルもUCLAに進学して、舞台美術と映画製作を専攻した[4]。
初期の活動
兄弟はロンのUCLAでの親友フレッド・フランク(Fred Frank[7][8]、ギター)、フランクの夫人ロナ・メイヤー(Ronna Meyer[7][9]、バック・ボーカル、ピアノ)とアーバン・リニューアル・プロジェクト(Urban Renewal Project)[10]を結成して[11]、1967年1月に「コンピューター・ガール」(Computer Girl)など4曲を録音してアセテート盤[12]を制作した。「コンピューター・ガール」はラッセルが作詞、ロンが作曲した曲で、のちにスパークスの編集アルバム"Past Tense (The Best Of Sparks)"(2019年)に収録された[13]。
ハーフネルソン結成からスパークスへ
→詳細は「スパークス (バンド) § 歴史」を参照
ロンはスパークスの楽曲の殆どを作詞作曲してきた。ステージでは、派手なアクションを取りながら歌うラッセルとは対照的に、無表情でキーボード[注釈 6][14]を弾く。一方、1976年にアルバム『ビッグ・ビート』発表後に行なったツアーでは、ピアノの椅子を叩き壊した[注釈 7][15]。
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ディスコグラフィ
スパークス
→詳細は「スパークス (バンド) § ディスコグラフィ」を参照
その他
脚注
外部リンク
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