トップQs
タイムライン
チャット
視点

ヴィーンヌィツャ大虐殺

ウィキペディアから

ヴィーンヌィツャ大虐殺
Remove ads

ヴィーンヌィツャの虐殺(ヴィーンヌィツャのぎゃくさつ)は、大粛清時代(1937年-1938年)にウクライナヴィーンヌィツャで、一般市民がソ連秘密警察NKVDによって裁判無しに処刑された事件である。1943年ドイツ軍がウクライナを占領していた頃に、ヴィーンヌィツャの共同墓地が発見されて徹底的に調査された[1]。ヴィーンヌィツャの虐殺は、カティンの森事件と同様な規模を持つ虐殺で、共産党テロの一例である。

Thumb
現在のヴィーンヌィツャにおける大虐殺の犠牲者記念碑。
Thumb
「ヴィーンニツァ」
ナチス・ドイツのプロパガンダ・ポスター

概要

共同墓地の調査を行ったのは、ヨーロッパの11ヶ国の解剖学者と病理学者からなる国際調査団であった。その調査団の構成は、中立国スウェーデン以外は枢軸国もしくはナチス占領下の地域出身者で占められていた。[2]。調査団構成員は以下の通り。

調査員が91の共同墓地を発見し、そこから9,442の遺体を掘り起した。そのうち、149の遺体は女性であったということが確認された[3]。調査団は、過半の犠牲者が1937年から1938年の間に銃殺されていたことを確認し[4]、679の遺体がヴィーンヌィツャ市内・郊外の市民であったことが判った。虐殺されていた人々の多くはウクライナ人であったが、また少数のポーランド人も含まれていた[5]

戦時中、調査の結果と写真はヨーロッパの国々に出版され、ナチス・ドイツにおいて反ソ連のプロパガンダとして利用された。ヴィーンヌィツャで多くの遺体が再埋葬され、共同墓地には「スターリンのテロの犠牲者記念碑」が立てられた。戦後になると、ソ連は虐殺をナチスの仕業として、記念碑を「ナチスのテロの犠牲者記念碑」に替え、さらにそれを除去して共同墓地の場所を遊園地にした[4]

冷戦中、ヴィーンヌィツャの虐殺については欧米に居住するウクライナ系移民によって研究が進められてきた。一方、ソ連ではそのテーマは1988年まで禁忌[要出典]となっていた。

Remove ads

ギャラリー

※注意 掘り出された遺体が写っている写真があります。ご覧になる方は右端の「表示」をクリックして下さい。

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads