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三將圍攻佛多和山城

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三將圍攻佛多和山城[読み疑問点]」は、『滿洲實錄』にみえる明万暦21年1593の戦役。

本戦役で、イェヘとともにヌルハチ征討を図った長白山の訥殷ネイェン部が討滅され、長白山地方が支配下に入ったことで、ヌルハチは曩きに併呑していた建州五部も併せて建州女直全域を支配下に置いた。

経緯

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『滿洲實錄』巻2「三將圍攻佛多和山城」

万暦21年1593旧暦10月、ヌルハチは、グレの山での一戦においてイェヘに加勢した廉で、朱舍里ジュシェリ部を征討し、部主・紆楞格ユレンゲらを捕縛した。しかし結局その罪科を宥し、連行して扶養することにした。[1]この頃、訥殷ネイェン部の搜穩シャウェンと塞克什セクシは七箇所の寨ガシャンから人を集め、佛多和フォドホの山寨に移住させた。[2]

三將佛多和山城圍攻

翌閏11月、ヌルハチの命を受けたニョフル氏エイドゥ、イルゲン・ギョロ氏ガガイ、ギョルチャ氏アンバ・フィヤング (ションコロ・バトゥル) の三人は、兵1,000人を率いてネイェン部のフォドホ山寨に侵攻した。三箇月に亘て連日侵攻を続け、翌22年1594正月に城を攻略すると、シャウェン、セクシを斬伐して撤収した。[3][4]

蒙古との通好

同月、蒙古ノン・ホルチン部の酋長ベイレ明安ミンガン五部ハルハの部主ベイレ老薩ロオサが使者を派遣し通好を求めた。これ以降、蒙古諸ベイレとの間に通使の交流が続いた。[5][6]

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脚註

文献

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