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上米の制

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上米の制(あげまいのせい)とは、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗享保の改革の際に出した制度。上げ米の制と表記することもある[1]享保7年(1722年)に制定された[2][3]

内容

大名石高1万石に対して100を納めさせる[4]代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。幕府の増収に貢献したが、問題点も多く享保15年(1730年)に廃止された。

出典:[5]

享保七〈寅〉年七月

御旗本ニ被召置候御家人、  御代々段々相増候。御蔵入高茂先規よりハ多候得共、御切米・御扶持方、其外表立候御用筋渡方ニ引合候而者、畢竟、年々不足之事ニ候。然とも、只今迄者所々御城米を廻され、或御城金ヲ以急を弁られ、彼是漸御取つゝきの事ニ候得共、今年ニ至而、御切米等茂難相渡、御仕置筋之御用茂御手支之事ニ候。それニ付、  御代々御沙汰無之事ニ候得共、万石以上之面々より、八木差上候様ニ可被  仰付与思召、左候ハね者、御家人之内数百人、御扶持可被召放より外者無之候故、御恥辱を不被顧、被 仰出候。高壱万石ニ付八木百石積り、可被差上候。且又、此間和泉守ニ被 仰付、随分遂僉議、納り方之品、或新田等取立候儀、申付候様ニとの御事候得共、近年之内には難相調可有之候条、其内年々上ヶ米被 仰付ニ而可有之候。依之、在江戸半年充被成御免候間、緩々休息いたし候様ニ、被 仰出候。

 何茂在府之儀ニ付而者、江戸人多ニも候間、此以後、在府之間も少キ儀候条、可成程者人数可被相減候。

     (『御触書寛保集成』1709号(一))

そもそも上米の制は「御恥辱を顧みられず仰せ出されて候」と述べられるように、幕府財政を各藩に依存するものであり、幕府権威の低下は免れなかった[5]。また、参勤交代の緩和策は江戸藩邸での経費削減につながり、大名の経済力の拡大をもたらしうるものだった。

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脚注

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