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下野上田藩
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下野上田藩(しもつけかみだはん[注釈 1])は、下野国都賀郡上田村(現在の栃木県下都賀郡壬生町大字上田)を居所として、江戸時代中期の元禄年間にごく短期間存在した藩。1692年、徳川綱吉の近侍であった安房国東条藩主・西郷寿員が1万石で移されたが、職務怠慢などを理由として領地半減の処分を受け、2年足らずで廃藩となった。
歴史
関連地図(栃木県)[注釈 2]
元禄5年(1692年)2月7日、徳川綱吉の小姓を務めていた安房東条藩主・西郷寿員(20歳)は、下野国都賀郡・河内郡・芳賀郡に所領を移された[2]。寿員は上田を居所とし、これによって下野上田藩が立藩した[2]。
寿員の義父にあたる西郷延員はすでに隠居していたが、隠居の身でありながら不行状であるとして元禄5年(1692年)5月29日に綱吉の勘気を受けた[3]。本来ならば他家に預けるべきところ、寿員が近侍であることが考慮され、罪が宥免されて上田での蟄居が命じられた[3]。
翌元禄6年(1693年)11月13日、寿員は職務怠慢(「其勤よからざる」)を理由として中奥小姓に移される[2]。同年12月9日、反省が不十分(「つつしみおろそか」)であるとして、寿員は所領半減・寄合入り(無役の旗本への降格)・出仕停止の処分を受けた[2][注釈 3]。これにより、西郷家は5000石の旗本となり、下野上田藩は廃藩となった。
廃藩後もしばらく、上田村[注釈 4]は西郷家の知行地として残った[6]。隠居の西郷延員は元禄10年(1697年)4月25日に上田で没している[3]。元禄11年(1698年)3月7日、西郷寿員は下野国の知行地を近江国内に移された[2]。
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歴代藩主
- 西郷家
譜代。1万石。
領地
上田村には中世に上田城が築かれており、大関氏一族の遺跡がある[7]。近隣の朝比奈にも館跡や寺社などがあり、上田一帯は「中世的な場」であった[8]。上田村の上田寺は日蓮宗の古刹で[9]、当地で隠居した西郷延員が上田寺を保護し、寺門が繁栄したと伝えられる[9]。元禄11年(1698年)に西郷家は知行地を近江国に移されたが、上田村は同年中に旗本板倉重行[注釈 5]の知行地になったとみられ[10]、幕末まで板倉家が知行した[4]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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