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中条家忠

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中条 家忠(ちゅうじょう いえただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。三河国八草城広見城主。一般には中条将監として知られる。

概要 凡例中条家忠, 時代 ...

略歴

出自不詳。陸奥国出身の中条飛騨守の嫡男説、尾張国春日井郡出身説、三河加茂郡八草村[2]出身説がある。衣城を本拠とした中条氏との関係も不明であり、区別するために「八草中条氏」と呼ばれる事がある。

織田信長に早くから仕え、天文21年(1552年)8月の尾張下四郡守護代清洲城主・織田信友との戦い(萱津の戦い)で奮戦し、柴田勝家と共に敵方家老である坂井甚介を討ち取っている。永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦いに一族の中条又兵衛と共に従軍。翌元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」[3]では、佐々成政簗田広正と共に殿軍を受け持ち、追撃する浅井軍と戦い、家忠・又兵衛共に負傷している。この他、元亀元年(1570年)9月の志賀の陣天正2年(1574年)の第三次長島侵攻、天正5年(1577年)の雑賀攻めなどにも参加している。

天正5年(1577年)3月に秀興山正林寺(豊田市広幡町)を創建。また、戦火のため荒廃していた猿投神社の復興にも尽力した。同年8月30日に没し正林寺に葬られた。

子は長男・弥十郎秀佳、次男・荘助(勝助)の二人がおり、信長の死後、織田信雄に仕えた。秀佳は文禄・慶長の役で戦死、荘助は八草城陥落[4]後、足助に逃れたという。天正6年(1578年)の猿投神社遷宮時に残された棟札によれば、「左近将監秀正」の子は「勝兵衛尉秀清」であるが、秀佳と秀清が同一人物かどうかは不明である。

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脚注

出典

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