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中臣寿詞
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中臣寿詞(なかとみのよごと、中臣の寿詞)は、古代日本での天皇の即位式および大嘗祭において、中臣氏によって奏上された寿ぎ詞(ほぎごと)[1]。「天神寿詞(あまつかみのよごと/あまのかみのよごと)」とも。
概要
寿詞(よごと、賀詞)とは「天皇を寿ぐ言葉」を指す[2]。中臣寿詞の場合、元々は「天神寿詞」と称される詞であったが、神事・祭祀を掌る中臣氏(のち大中臣氏)が奏上することから「中臣寿詞」と称されるようになった[3]。文体は祝詞と同様に宣命体[2]。類例に出雲国造が奏上した寿詞である出雲国造神賀詞が知られる[2]。
中臣寿詞の奏上制度の成立は詳らかでない。古くは『日本書紀』において、持統天皇4年(690年)[原 1]の天皇即位に際して物部麻呂(石上麻呂)は大盾を立て、中臣大嶋は「天神寿詞」を読み、忌部色夫知は神璽の剣鏡を奉ったことが記されている[3][1]。翌年の持統天皇5年(691年)[原 2]にも、大嘗祭において中臣大嶋が「天神寿詞」を読んでいる[3]。
飛鳥時代・奈良時代に定められた「大宝令」や「養老令」の神祇令[原 3]では、践祚の際に中臣氏が「天神之寿詞」を奏上する旨と、忌部氏が「神璽之鏡剣」を奉る旨とが定められている[3][1]。平安時代に入っても、『貞観儀式』[原 4]や『延喜式』[原 5]において同様の旨が定められていた[3]。
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内容
内容が分かる主な寿詞としては次の2種がある。
前者は近年に発見された寿詞であり、かつては後者の方が本居宣長が『玉勝間』で初めて紹介して以来よく知られていた[4]。いずれも12世紀に奏上されたものであるが、内容は上古とほとんど変わらないと推測される[5][6]。
その内容は、天孫降臨での中臣氏祖神(天児屋根命・天忍雲根神)の働きについて述べたのち、大嘗祭での悠紀・主基の卜定と天皇の御代の寿ぎを述べ、最後に寿詞を拝聴する者への下知の形をとる[5]。特に天皇を「大倭根子天皇」と称する点や、『古事記』・『日本書紀』には見えない天忍雲根神[7]に関する中臣氏独自の伝承が記される点が注目されている[6]。
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脚注
参考文献・サイト
関連項目
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